M-004 ナツミさんの包丁捌き
だいぶ日が高くなってきた。太陽高度を見ると、9時前ぐらいじゃないかな。
「さて、素潜り漁の始まりだ。なるべく大きいのを突いてくれよ」
オルバスさんが舷側から銛を手にして俺に言うと、海に飛び込んだ。直ぐにグリナスさんが後を追って飛び込んでいく。
「それじゃあ、ナツミさん行ってきます」
「負けないでね!」
にこりと笑い掛けながら、俺に右手を伸ばして親指を立てる。しっかりと頷いたところでシュノーケルを咥えて海に飛び込んだ。
海中は数m程の深さに見える。
たくさんのサンゴが枝や翼を広げるようにして海底を隠してはいるんだけど、小魚が多いからそれを餌にする大型の魚も多いということなんだろう。
ふと下に目を向けると、俺のすぐ真下をブダイが泳いでいる。少し先のテーブルサンゴの裏に入って行った。
なるほど、サンゴの裏ってことだな。
一端水面に出て、シュノーケルで息を整えながら、銛のゴムを引いて左手で握る。
準備ができたところで、一気にダイブした。あまり肺に空気を入れないことがコツだ。でないと自分の浮力が潜るのを邪魔してしまう。
さんざん海人さんに教えられたんだ。おかげで俺達の仲間だけが他の連中よりも腕を上げたことは間違いない。
ゆっくりとした動作でサンゴの裏を覗くと、大きなブダイがこっちを睨んでいる。
サンゴの下に潜り込み、ブダイと俺が水平になるように右手を使って位置を調整する。目標に向かってゆっくりと銛を突き出しながら左手を緩めた。
勢いよく柄が手の中を滑っていき、銛は狙い違わずブダイのエラ付近に命中した。
暴れるブダイを無理やりにサンゴの下から引き出しながら浮上する。
シュノーケルから海水を吹き出しながら周囲を見渡すと、ナツミさんがカタマランで手を振っているのが見えた。
獲物を海上に突き上げて、最初の1匹をアピールする。
「大きいね。次もがんばってね!」
そう言ってくれるとやる気も出るな。
銛先からブダイを引き抜き、カタマランからロープで下ろされたカゴに入れると、親指を立てて再び海中を目指す。
大きな平たいサンゴの下が狙い目かな? 次はあのサンゴの下を狙ってみるか。
3匹目を突いて浮上したところ、女の子が休憩だと教えてくれた。
ヨットに銛と装備を下ろしたところで、カタマランから下ろされたロープを使って甲板に乗り込んだ。
甲板ではオルバスさん達が胡坐をかいてお茶を飲んでいた。俺がやって来たところで場所を開けてくれる。
「ブラド3匹を簡単に突くのなら、俺達と一緒に漁をしても問題ないな。ザバンがあればもっと楽なのだが、それは仕方あるまい」
「ザバンとはあの小さな船だ。保冷庫が付いているから、一々動力船に戻らずに済むんだ」
グリナスさんが指さしたのは、この船が引いていたカヌーみたいな船だ。なるほどね。確かに理屈ではある。
「アオイの嫁はあまり魚を捌くのが上手くはないな。だが、トリティが仕込んでくれるはずだ。今のままでは売り物にならんぞ」
「突いた魚をそのまま売るんではないんですか?」
「開いて干すんだ。でないと腐ってしまうぞ。中には燻製にする魚もあるが、ほとんどは開いて一夜干しにする」
オルバスさんが動力船の屋根を指さしたから、夕方からそこに魚の開きを入れたザルを干すのかな?
「やっと終わったにゃ。ナツミが捌けるようになるには時間が掛かりそうにゃ」
大仕事が終わったような表情でトリティさんが呟いている。その後ろでナツミさんが満足そうな表情をしているのと対照的だ。
「となると、しばらくは面倒を見てやらねばなるまい。あの船にはカマドも無いからな。2人分の食事とナツミの修行で息子達と同額の報酬でどうだ?」
「そうして頂けるなら助かります。でも、俺達にこれほどしていただいて問題は無いんですか?」
食事だけでもありがたいが、俺達の生活の面倒……、いや独り立ちできるまでの面倒まで見て貰うことになったら、オルバスさん達の生活だって苦しくなるんじゃないだろうか?
「ネコ族は助け合うものだ。お前の腕に聖痕がある以上、お前はネコ族に縁があるのだろう。困った同胞を助けるのは当たり前のことだ」
かなり同族意識が高い種族のようだ。俺をネコ族と縁があると言っているけど、どういうことなんだろう。
「はぁ、やっと終わった!」
「まだまだにゃ。ブラド2匹は昼食のおかずになったにゃ……」
夏海さんが俺の後ろにやって来てお茶代わりにココナッツのジュースを飲み始めた。
やれやれといった感じでトリティさんが嘆いているし、ティーアさんとマリンダちゃんはブラドがおかずと聞いて笑みを浮かべていた。
一休みしたところで再び漁が始まる。
何とか3匹を追加したところで、マリンダちゃんが動力船で両手を振っているのが見えた。だいぶ太陽が上になっているから昼食ということになるんだろう。
動力船の甲板に皆が集まっての昼食は、おかゆモドキの品だった。中に入っている焼いた魚の切り身は、ナツミさんが裁くのに失敗したブダイに違いない。とはいえ、魚の香ばしい香りと、塩味が絶妙だから、美味しさが格別だ。
ナツミさんも目を細めて食べているから、気に入ったに違いない。
食器を洗うのかと思ったら、まとめてザルに入れるとトリティさんが何やら呟くと、一瞬にして食器が綺麗になった。
思わず、ナツミさんと一緒に目を丸くして見てしまった。
「魔法を知らないわけじゃないだろうに。俺達ネコ族は人間族に劣るかもしれんが1日数回の魔法を行使できる」
「いや……。初めて目にしました。どうやら知らないところからここにやってきてしまったようです。昨夜話したように、ネコ族という種族も初めて聞きましたし」
俺の話に、皆が顔を見合わせている。
やはり問題なんだろうな。ここを追い出されたらまた西に向かわねばならないのだろうか?
「覚えれば良いにゃ。【クリル】と【アイレス】の2つで十分にゃ」
「まあ、そういうことになるな。【クリル】は汚れを落とす。体の汚れも落とせるから生活に絶対必要になる。【アイレス】は氷を作る魔法だ。術者の太腿くらいの氷が2つできる」
保冷庫があると言っていたのは、魔法で作った氷を使うということになるんだろう。
となればその入手方法だが、どうやら定期的に魚を買い付けに来る商船に乗った神官が授けてくれるらしい。1つに付き銀貨3枚と言っていたけど、どれだけ魚を突くことになるんだろう?
「しばらくはトリティ達が助けてくれるはずだ。だが、雨季の前の漁でそれぐらいは稼げるだろう」
高価な魚ということなんだろうな。ちょっと想像できないが、教えて貰えば何とかなるということなんだろう。
「これからお昼寝にゃ!」
突然、気合の入った声でトリティさんが告げたけど、俺達には昼寝の習慣なんてないんだよな。
夏海さんと顔を見合わせていると、グリナスさんが笑い声を上げた。
「ハハハ……。俺達は昼寝をするが、眠れなければ釣りでもするんだな。上手く行けば夕食のおかずが増える。道具は持っているか?」
そう言って、ブラドの皮をはいで渡していくれた。餌ってことなんだろうな。
「一応持ってはいますが、釣れないかも知れませんよ」
「まあ、やってみろ。根魚もかなり見つけたからな。ブラド並みのバヌトスなら売ることもできる」
なら、やってみないといけないな。
ヨットに戻ると、俺が持っていた釣り竿を取り出す。
元々が船釣りに使う竿だし、道糸は伸びの少ない組紐みたいなタイプの奴だ。大物が掛かってもと20号という道糸だから、この辺りでも十分に使えるだろう。
根魚ということで、2本針の胴付き仕掛けを付けて、釣り針に貰ったブラドの皮を短冊に切り取って縫うように付けた。
重りは小石を木綿糸で縛ったものだが、根掛かりを考えるとこんな重りが一番だ。
ポイっと仕掛けを投入して道糸を繰り出す。水深は数mだから棚を取ったりしたらサンゴに根掛かりは確実だ。
両軸リールのドラグを少し緩めて竿を上下に動かして誘いを掛ける。さて、何が釣れるかな?
帽子を被り、サングラス姿で咥えタバコは少し問題だが、補導されることは無いだろう。携帯灰皿を用意してのんびり竿先を眺めていると、いつの間にか隣にナツミさんが座っていた。
「この世界は、私達の世界とは違うみたいね。でも、親切な種族らしいから暮らしていけそうだわ」
「ナツミさんは魚を捌けなかったんですか?」
「いつもは、通いのおばさんがやっていたから……。私は食べるだけだったの。でも、覚えなきゃいけないわ」
力強く宣言してるってことは、トリティさんの指導は厳しいってことなのかな?
突然、竿がガタガタと震えだした。
竿を握って大きく合わせると、直ぐに引き込まれるからしっかりと乗ったようだ。
だけど、引きが下ではなく横だ。この引きは底物ではなく青物特有の引きだぞ!
ぐいぐいとリールを巻く。ともすれば緩んだドラグのおかげで道糸が引き出されていくからドラグを少し締め付けて巻いていった。
「何かな?」
「一番この引きに近いのはサバなんですけど、この辺りにいるんでしょうかね?」
「ハマチかも知れないわ。お刺身よ!」
さすがにハマチクラスではないだろう。だけど、イナダを釣り上げた時にも似た感じだったな。
紡錘型の魚体が見えだして、道糸の先端が上がって来た。道糸と仕掛けを繋いだスナップ付きの撚り戻しを掴むと一気に海中から魚体を引き抜く。
ヨットの中に投げ出された魚体は、どう見てもイナダだな。バタバタと暴れているからちょっと手を出しにくいところだ。
「シーブルにゃ!」
マリンダちゃんが舷側から俺達を見て大声を出した。次の瞬間、ヒョイ! と身軽な動作でヨットに飛び降りると、持っていた棍棒でイナダの頭をポカリと叩いた。
おとなしくなったけど……、良いのかな?
「釣れたらこれでポカリにゃ!」
そう言って棍棒をナツミさんに手渡している。イナダの尻尾を持って行ったけど、マリンダちゃんが捌くつもりなんだろうか?
あっけに取られていたが、咥えタバコに気が付いて、携帯灰皿に投げ込んでおく。
頭に疑問符を浮かべてナツミさんと顔を合わせていたら、再び俺の持っていた竿がグイグイと引かれている。どうやら次の奴が掛かったみたいだ。
同じように釣り上げたイナダを、ちょっと尻込みしながらも「えい!」とナツミさんが棍棒でハマチをおとなしくさせた。
「シーブルだと!」
今度はオルバスさんが外輪船の舷側から身を乗り出してきて声を上げた。
「名前は分かりませんが、こんな奴です!」
針を外した獲物をオルバスさんに尾を持って見せる。
「シーブルだ。俺は舳先に行く。グリナスは船尾、マリンダはシーブルを受け取るんだ」
てきぱきと指示を出しているけど、そんな魚なのかな?
そんな姿を見ていると、またしても竿に当たりが伝わる。これは入れ食いに近いんじゃないか!
入れ食い状態が1時間も過ぎると、ぱたりと当たりが無くなった。群れが去ったということなんだろうな。
グリナスさんが俺達を見ながら釣り道具を片付け始めたのを見て、俺も仕掛けを引き上げて釣りを終えることにした。
甲板ではザルに盛られたイナダをトリティさんとティーアさんが素早くエラと内臓を取っている。それをナツミさんとリーザちゃんで甲板の板を開いた中にせっせと運んでいた。
「何とも、運が良い奴だ。シーブルは生で運ぶ。俺達も食べるが大陸では珍重されるんだ。群れの動きが早くて釣りが出来るのは1時間もない。当番で海面を見張ってる船もあるくらいだ」
「30を超えてるぞ。これほどの漁は久しぶりだ」
「アオイは全て釣り上げてたが、お前は何匹バラしたんだ? せっかくカイト様が我等に伝えてくれたやり方ができないんでは、氏族の皆に顔向けも出来ん」
「2匹だけだよ。竿の弾力を利用するのがようやくできるようになったぐらいだ」
「それが出来れば一人前だ。微妙な加減がいるのだからな」
甲板に車座に座った俺達は、思いがけない獲物に話を咲かせることになった。
オルバスさんは、釣りをしながら俺達の様子を見ていたようだ。
「アオイは細い竿の弾力をきちんと利用していたようだ。良く見て自分でもできるようにするんだぞ」
オルバスさんの言葉にグリナスさんが頷いている。だけど、オルバスさんは手釣りで行っていたようだ。手釣りは手返しが速いから、竿とリールの組み合わせよりも短時間でたくさん釣れる。
将来的にはオルバスさん達のように竿を使わない方が良いんだが、バラシを減らす方が先って感じなんだろう。
「これだけ釣れたなら、村に戻るにゃ。これから帰るなら、明日中には着くにゃ。丁度商船がやって来るころにゃ」
「そうだな。問題はアオイ達だが……。商船が帰るまでは船から出なければ良いだろう。俺達の船着場は商船の桟橋よりもだいぶ離れているからな。アオイの扱いを長老が決めるまでは俺の船の傍にいればいい」
一仕事が終わったトリティさんとオルバスさんが自分達の暮らす島に帰る事を告げた。
俺達の事も考えてくれているようだから、このまま着いて行こう。
夕食を早めに作り始めるようで、ナツミさんも手伝いというか後ろで眺めている。料理の仕方も俺達のやり方とはかなり違うのだろう。
「アオイのおかげでシーブルが大漁だからな。漁をしないで真っ直ぐ帰るんだ」
グリナスさんがパイプを持ち出して教えてくれた。一服するんならと、俺もタバコを取り出す。ライターで火を付けてあげると、「魔道具なのか?」と聞いてきたが、魔道具っていったい何なんだ?
夕食を簡単に済ませると、俺達はヨットに向かった。
星空の下をカタマランが進む。周囲の島影がぼんやりと俺には見えるくらいだが、ネコ族の人達には船を進めるには十分な明るさらしい。
空には満天の星空だ。銀河だってはっきり見ることが出来るが、俺の知る星空とは少し違うみたいだ。
こんな場所が地球にあるなんて想像できないし、ネコ族なんて聞いたことも無い。やはりここは別の世界なんだろうな。




