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290引っ越しの紅茶事件04

 日向がその様子をデジカメで(とら)えていく。邪魔にならないように少し離れての取材だった。


 釜田先輩は茶漉(ちゃこ)しを使用し、各カップに回るように紅茶を淹れていった。素晴らしい蘭の花香と、澄んだ黄色がかったオレンジ色の水色(すいしょく)に、俺を含めた5人の審査員は感動を隠しきれない。紅茶愛好会会長は、最後の一滴まで注ぎ込んだ。


 副会長が興奮してまたも解説する。


「最後の一滴は『ゴールデンドロップ』といって、一番美味しいとされてるんだ。良かったな、富士野。お前もそれを味わえるんだ」


 釜田先輩はスティックシュガーとスプーンを添えて、5人の審査員全員にカップを差し出した。


「出来上がりです。どうぞ召し上がれ」


 田浦教頭が砂糖を入れて混ぜる。皆もそうした。一口飲むと、芳醇(ほうじゅん)な香味が口の中一杯に広がって、天にも昇る心地だった。


美味(うま)い!」


美味(おい)しい!」


 青柳先生、畑中先生が揃って激賞する。


「へえ、俺はいつもリプトンのティーバッグで済ましているし、それでも十分美味いと思っていたが……やっぱり本物は違うんだな。色艶(いろつや)、匂い、そして味。全てが次元が違う」


「そうですよね。専門店で出されるような、高級感あふれる出来栄えですね」


 俺は2人の言に納得しながら、至福のティータイムを過ごした。


「こんな美味い紅茶、飲んだことがありません」


「だろう?」


 久地先輩が目をつむり、余裕たっぷりに杯を傾ける。


「俺が認定するが、これは釜田が淹れた紅茶史上ナンバーワンの傑作だ。断言してもいい。菅野の腕でこれに勝る紅茶など作れるはずがない」


 純架が物欲しそうな目で恨みがましく俺を見やる。


「少しぐらい分けてくれても良かったのにね、楼路君」


 気付けば俺は全て飲み干していた。


「ああ、すまん」


 海藤先輩が余裕たっぷりに純架を罵倒した。


「アホが、お前は審査員じゃないだろうが。間抜け」


 その後、脇を向いて小声で付け足す。


「……飲みたかったら、お前も紅茶愛好会に入ればいいんだ」


 純架は良く聞こえなかったらしい。


「え? 何ですか?」


「何でもねえよ」


 海藤先輩は吐き捨てると家庭科室の時計を見た。


「それにしても菅野の奴、まだ来ないか。これはあたしらの不戦勝でもいいんじゃないか?」


 うーん、確かにこれ以上先生方を待たせるのは気が引ける。それにいくら結城と言えども、この紅茶相手に逆転は難しいんじゃなかろうか……


 と、そこで扉が開いた。結城が到着したのだ。


「すみません、遅くなりました」


 英二が柔らかく尋ねた。


「宮本武蔵じゃあるまいし……。何があったんだ?」


「いえ、大したことじゃないんです。茶道具を載せた黒服方の車が、工事渋滞に巻き込まれまして……。私はそれを校門前で待っていただけです」


 黒服たちは重そうな大きな箱を複数運んできた。結城が髪の毛を後ろで縛る。


「釜田先輩は既に振る舞われたようですね。どうでしたか、先生方」


 田浦教頭が至福の顔を見せた。


「いやあ、見事だったよ。水色(すいしょく)、香り、味、全て申し分ない」


 それを聞いて怖気(おじけ)づくかと思ったが、結城はむしろ闘志をかきたてられたらしい。


「そうでしたか。私も負けませんよ」


 いかにも楽しそうに、彼女は笑顔を見せた。


「始めます」


 結城は早速やかんに水道水を溜めて、それをコンロの火にかけた。それを釜田先輩が使ったのと似たようなポット――二つあった――に湯通しする。そして改めて、紅茶のためのお湯を沸かし始めた。


 あれ? カップは湯通ししなくていいのか?


 異変はそれだけではなかった。


「ちょっと量が少なすぎやしないか?」


 久地先輩が口を挟む。釜田先輩もつられるように疑問符を舌にのせた。


「そうですよね。どういうことでしょう? ……まさか」


 結城が微笑んだ。


「そのまさかです」


 そこで、黒服たちがやや大きめのグラスを次々と机上に並べ始めた。これは……


「アイスティー! そうだな、菅野!」


 久地先輩が思わず立ち上がって叫んだ。そうか、アイスティーだからグラスに湯通しする必要はないわけだ。


 結城が唇を緩める。


「ご名答です、久地先輩。私はアイスティーを作るつもりです」


 結城は黒服たちの持ち込んだアイスコンテナから氷を取り出し、グラスから少しはみ出るぐらいに大量に投入した。


 そしてリーフティーの缶を手にする。釜田先輩が目を丸くした。


「ちょっと待ってください。菅野さん、その茶葉はもしや、アッサムではありませんか?」


「はい、その通りです」


 俺は釜田先輩が何に驚いたのか分からなかった。アッサム? 何それ美味しいの?


 久地先輩が呆然とする俺に熱を込めて解説した。この分からずや、といわんばかりだ。


「アッサムは世界最大の紅茶の産地、北東インドのブラマプトラ河の両岸に広がるアッサム平原で収穫される茶葉だ。6、7月のセカンドフラッシュがクオリティピークで――ああ、まずセカンドフラッシュを知らないか」


 勝手に斟酌(しんしゃく)してくれる。


「セカンドフラッシュとは二番摘みのことで、味・コク・香りともに一年中で最も充実した最高級品のことだ。紅茶の中でも特に優れた茶葉を指す。アッサムなら特有のパンチの効いたコクと濃い水色(すいしょく)をもつことだろう」


 そんな凄い茶葉なのか。何でもありの乱闘スタイルとはいえ、また結城も材料に妥協をしなかったわけだ。


 久地先輩が結城に質問した。


「そのグレードは何だ?」


「FTGFOPです」


「ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコか!」


 凄いな、紅茶愛好会の知識。普通噛まずに言えるか? ふと純架を見ると、いかにも楽しそうだった。


 しかし、と久地先輩は顎をつまむ。


「アッサムは一般的にタンニンが多いから、アイスティーには向かないはずだ。クリームダウンを起こすぞ……まあ、その前に飲め、ということか……」


 結城は首肯した。


「はい、その通りです。でもそれだけじゃありません」


 彼女はポットのお湯を捨てると、その中にグラスに見合う量のアッサム茶葉を入れていく。今やかんで沸かしているお湯が半分の量で、茶葉が通常の量だから、結果的には2倍の濃さになるわけだ。


 葉を入れ終わると同時に、結城は頃合いと見て火を止め、沸騰直後のベストのお湯をポットに注ぎこんだ。蓋をして、フクロウの絵が描かれた何かを上から被せる。


 久地先輩が歯軋りした。


「ティーコジーか」


 俺の不得要領(ふとくようりょう)な顔を見て、彼は説明した。


「ティーコジーは布製の保温カバーだ。ポットが冷えないように包んでおくためのものだ。釜田は持ってくるのを忘れていたんだ」


 結城はストップウォッチで時間を計測している。俺はフクロウの絵で見えないが、彼女のポット内でもまた、ジャンピングが起こっているものと確信した。


 きっちり3分。彼女は別のポットから湯通しの湯を捨てると、ティーコジーを外し、中を一混ぜしてからそちらへ茶漉(ちゃこ)しして流し込んだ。

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