278健太の初恋事件02
俺は気になって席を立ち、コーヒーの入った紙コップを片手に、健太のそばに歩み寄った。
「どうした柳。悩み事か?」
しかし健太は俺の声が聞こえていないのか、はたまた無視しているのか、一向にブロンズ像のようなポーズを変えなかった。俺は少しいらっとして、彼の耳元に直接言葉をぶち込んだ。
「おい柳、悩み事かって聞いてるんだ!」
「うわっ!」
健太が今俺の存在に気付いたかのごとく、喫驚して躍り上がった。俺はその勢いに、コーヒーの中身をこぼしかける。
「な、何だよ柳。聞こえなかったのかよ」
健太は心臓を押さえて呆然とこちらを見つめている。いや、びっくりしたのはこっちもだ。彼はしばらくして丁寧に謝罪した。
「すみませんでした! ちょっと考え事をしてまして……」
「考え事? お前が? 何かあったのか」
「はあ……」
言いよどむ。何だか怪しい。これは隠し事があるなと、俺は追及を強めた。
「何だ? 勉強か。家庭か。はたまた恋か?」
単細胞な健太だけあって、最後の台詞に敏感に反応する。頬を赤く染め、両目は平静を取り繕えず右往左往した。いつの間にかすぐ近くに距離を詰めていた純架が、健太の肩をどやしつける。
「僕ら『探偵部』に隠し事はなしだよ。柳君、正直に話したまえ。我々の口の堅さは折り紙つきだからね、心配はいらないよ」
健太は俺と純架を交互に見やった後、俺たちの背後の部員一同を遠く眺めた。振り返ってみれば会話をしているものはなく、皆健太にうなずいてみせている。それで決心したのだろう、健太は椅子にどかりと座り込んだ。両手の親指をもじもじとすり合わせる。
「実は、ある女の人のことが気になって気になって……。勉強も家事手伝いも上の空で、いつもその人のことばかり考えてしまうんです。それを恋と呼んでいいのかどうか、おいらには分かりません。ただ、人生15年生きてきた中で――もうすぐ16歳ですが――生まれて初めての感情に戸惑っている、持て余している――というのが正直なところです」
奈緒があっさり喝破した。
「それを恋って言うんじゃない。相手は誰なの? どうして恋に落ちたの? ぜひ聞かせてよ」
真菜も日向も目を輝かせる。恋バナが好きな女性陣であった。
健太は吐き出すべきかどうか苦悩した。懊悩とさえ言えた。
「話しても笑いませんか?」
奈緒は当然とばかりにうなずいた。
「当たり前でしょ。恋を笑うものは恋に泣く、って昔からいうものね」
健太は数十秒後、踏ん切りをつけたのか、とつとつと語り始めた。
「おいらが好きなのは、3年3組の桂川先輩です。とにかく神々しくて……おいらが会話してもいいのかと思うほどの超美人です」
ほう、2年上の先輩か。
「おいらは体育の授業で、珍しくずっこけてしまいました。膝頭をすりむいて、鮮血がにじみ出てきて……とにかく痛かったです」
健太にも痛覚があるのかと、俺は失礼なことを考える。
「それで占部先生から、保健室へ行って手当てしてもらうよう命じられました。おいらは半ば片足を引きずるように、校舎1階の目的地へ時間をかけて訪れました。最初は誰もいないのかな、と思いました。保険医の先生は留守らしく、カーテンで閉ざされたベッドにも人の気配はありません。そこで自力で治療しようと、勝手に机の引き出しを開けて中を探っていたときでした。誰もいないと思っていたベッドの方から、いきなり挨拶されたんです。おいらは驚愕して引っくり返りそうになりました」
まあそうだろうな。
「カーテンが開かれ、制服姿の3年女子がベッドに座った状態でこちらに視線を投じてきます。おいらはその美貌に心を射抜かれました。今まで生きてきて、あんな美しい人は――桐木先輩を除けば――初めてだったんです。彼女は言いました。『でかいな、君は』。落ち着いた、冷静な声です。それが緩衝材となって、おいらはダンスする心臓をどうにかなだめることに成功しました」
健太の話は結構聞きやすい。意外な面が見れて、俺は感心した。話は続く。
「彼女は自己紹介しました。『私は3年3組の桂川という。今まで体調不良で寝ていたんだ。君は?』。僕も答えます。『1年1組の柳健太です! 部活は「探偵部」に所属しています!』。もう直立不動でした。桂川先輩は黒いポニーテールを揺らし、『でかいな、君は』と再び苦笑します。そしておいらの負傷した膝に気付き、『今保健の先生は不在なんだ。代わりといっては何だが私が手当てしよう。椅子に座って』と指示してきました。もちろん否やはありません。おいらは言われた通りにして、桂川先輩の治療に身を任せました」
へえ、いい先輩じゃないか。
「アルコール消毒のときはさすがに激痛を感じましたが、それ以外は慣れた手つきで包帯を巻いてくれます。おいらはその優しさ、気品の高さに、どうやらあっけなく恋に落ちてしまったようでした。最後においらのふくらはぎを叩いて、桂川先輩の手当ては終わります。『さあ、授業に戻りたまえ。私はもう少し寝ていくから』。おいらは名残惜しくも、居残る理由も思いつかず、断腸の思いで保健室を後にしました……」
俺は腕を組み、今の話を脳内で咀嚼した。男は優しくされると弱いものだ。奈緒の日誌に感激した、かつての俺がそうだったように……。俺は何となく健太に親近感を覚えた。
「それで、その後は?」
「いやあ、それからは寝ても覚めても桂川先輩のことばかり考えてしまって……。さっきも富士野先輩に大声を出されるまで、一人脳内にあの女のことばかり再生し続けてました。すみません」
「話を聞いてみると、別にいらつくようなことでもなかったな。で、柳は告白するのか?」
健太の顔が真っ白になるさまは、一種の見ものだった。
「じょ、冗談じゃないですよ! きっと桂川先輩には彼氏がいます。いや、あんな美人で優しい人、彼氏がいない方がおかしいです! 告白なんて絶対無理ですよ。鼻で笑われるだけです」
「随分消極的だな」
「そりゃそうですよ。富士野先輩も実際会ってみれば分かりますって」
誠がいつの間にかこちらを向いている。
「男がいる可能性は大いにあるな。片想いなんてそうそう成就するものではないからな」
実感のこもった深い台詞だった。純架が紙コップのコーヒーを喉に流し込む。
「柳君が告白できないなら、僕と楼路君で桂川先輩に会って、せめて彼氏がいるかどうか尋ねてみようか?」
健太は慌てて反対した。
「よ、余計なことはやめてください! もしいるなんて答えられた日にはもう……生きていけない……」
純架は空のコップを机に置いた。
「大丈夫だよ、そうはいっても生きていけるものだから。……藤原君、どんな恋だってありうるんだよ。僕らは人間、すなわち永遠に未完成の生き物なんだ。何が起きてどんなことが生まれるかなんて、実際やってみないと分かりっこないよ。そうだよね?」




