220未来史図書館殺人事件10
須崎が爪を噛み締めた。
「客間や居間、厨房、管理人室ももう一度徹底的に調べましょう。何もないなんて、そんなはずがない……」
しかし先ほどまで皆でコーヒーを飲んでいた客間やその隣の居間、血の拭かれた後が残る厨房も、やはりプリンタ類はなかった。石井さんの遺体が安置されている管理人室も、有志の手で調べられたが、どこにもおかしな点は見出されない。
全ては徒労に終わった。須崎はぐうの音も出ず、管理人室のドアを閉めた――ガムテープで留められている。
斉藤さんが普段の調子を少し取り戻し、豪快に彼の肩を叩く。
「まあまあ、よくやったよ少年! こうなったら上の二階建ての図書館も調べんとあかんね。でも時間的にはもう午後11時過ぎや。こりゃいくらなんでも遅過ぎやで。後は明日に回したらどやろか」
金子さんが顎をつまんだ。
「そうだね。僕も調べたいことがあるし」
純架が耳ざとく尋ねる。
「何か気付かれたんですか?」
金子さんは手を振って苦笑した。
「いや、まだ疑惑の段階だから、口にするのははばかれるよ。明日になったら話すから」
美奈さんが手を揉み絞る。
「わ、私、早く部屋に帰りたいです。もう怖いのは嫌……」
晴香さんも同調した。黒い髪をかき上げる。
「私ももう化粧を落としてゆっくりしたいわ。犯人がこの中にいることは確実でも、鍵をかければ入っては来れないし。ともかく一人で色々考えたいのよ」
幸島さんはこの寒気なのに額に汗していた。歩き回るだけで発汗するのか……
「僕は酒でも飲まないとやってられないよ。ちょっと厨房を漁ってから自室に戻るよ」
俺は皆が石井さんの死、犯人の暗躍、孤島に閉じ込められた状況という三大要素にもかかわらず、自分を取り戻しつつあるのを知った。
「意外にみんな冷静だな」
招待客が三々五々散っていく中、純架が俺と並び歩く。
「表面上そう取り繕うしかないだけさ。誰が石井さん殺害の犯人なのか、全員疑心暗鬼に囚われているのは間違いないよ。僕だってそうさ。楼路君が犯人でないことを祈っているよ」
俺は面食らった。
「おい、今日はずっと一緒だっただろ、俺たち。たわけたことぬかすな」
純架はその美貌を楽しげにほころばせた。
「ふふ、何、ちょっとからかっただけさ。僕らもさっさと部屋に戻ろう。二人一緒なら犯人も手は出しにくいし、何より僕らが揃っていれば殺人犯ごときに遅れを取るはずがないからね」
(三)
「助けて……助けて……!」
誰かが叫んでいる。男か? 女か? 年長か? 年少か? 全く分からない。ただ、発声者がのっぴきならない状況にあると確信できるほど、それは真に迫っていた。
俺は真っ暗闇に立っていた。足元は非常に狭く、少し動いただけで虚空に触れる。落下しないためには不動を保たねばならなかった。
「助けて……!」
俺はどことも知れない声の主に向かって、あらん限りの大声で叫んだ。
「俺は何も出来ません! 何とか逃げてください!」
自分の言葉が反響し、少しずつ遠ざかって消えていく。助けを求める声は突如沈黙した。不気味なまでの静寂が暗黒を包み込む。
やがて……
「ぎゃあああっ!」
こちらの鼓膜を破って心臓に氷柱を打ち込むような、そんな断末魔の悲鳴が轟いた。はっきり声の主が死んだと分かってしまう、辛すぎる悲鳴。俺は彼だか彼女だかに、何も出来ず何もしてやれず、ただただ耳を塞いだ。
俺は助けたかったんだ。でも状況がそれを許してくれなかったんだ。俺は何度も何度も自分を慰めるために、心の中で言い訳を繰り返した。
絶叫のこだまが次第に小さくなっていき、完全に消えた。この世には自分一人しかいないのではないかと思える、完璧な静謐が降り積もる。
そして、しばらくして。
耳元で、悪魔のような声がささやいてきた。
「お前のせいだ……!」
「うわあああっ!」
俺は跳ね起きた。電気の点いた室内で、俺はソファに自分の手足を見出す。と同時に……
「熱いっ!」
自分の顔にへばりついていた熱々のタオルを慌てて引っぺがし、脇へと投げ捨てる。何じゃこりゃ。俺はようやく、自分が『深津島』の屋敷1階4号室で寝ていたこと、純架と相部屋でソファでの就寝を余儀なくされたこと、などを思い出した。
純架は既に起床し私服に着替えて、俺を面白そうに見下ろしている。
「やあ、楼路君。悪夢にうなされていたようだから、熱々のタオルを寝顔に引っ掛けておいてあげたよ。なかなか起きないもんだね」
何をやっている、何を。
「お前は相変わらずだな。あんなことがあったってのに……」
部屋の壁にかけられた時計を見やる。午前7時前だった。純架が羽織っている紫のカーディガンから、ほこりをつまんで取り、ゴミ箱に捨てた。
「あんなことがあったからこそ、僕は普段通りに心と行動を安定させなきゃと思うんだよ。うろたえて判断を誤ることのないようにね。それで、どんな夢を見たんだい? ひどい呻き声を漏らしていたけど」
俺は思い出そうとして果たせなかった。毎日毎日、人間という奴は夢を見るくせに、起きるとその内容をけろりと忘れてしまう。今朝の俺もそうだった。
「何だか、不気味な夢だったんだ」
それしか言えなかった。純架は肩をすくめた。
「それじゃさっぱりだよ。まあ石井さんの死体を目の当たりにして、しかもそれを搬出したんだから、悪夢を見たとしても不思議じゃないけどね。……ともかくお腹が空いてないかい? さあ、君も起きた起きた。朝食を摂りに行こう。こうも腹ペコじゃ何もできないからね」
居住区の東面に位置する4号室を揃って出る。北東の角を曲がって北の廊下に入ると、ちょうど3号室のドアが開き、須崎が出てくるところだった。白いシャツの上に黒いベストを着込み、下は黄土色のパンツだった。顔がいいから何でも似合う。俺には真似できないのが悔しいところだ。
「お前らも飯か?」
純架が俺の胸に逆水平チョップを放った。プロレスラー・小島聡ばりの完成度だった。
いつ練習したのか、何の意味があるのかはさっぱりだが、やられる身にもなってほしい。
「はい、そのつもりです」
須崎はその端正な顔を複雑に歪めた。今の奇怪で危機的な状況を喜んでいるような、恐れているような、そんな色が垣間見えた。
「石井さんは気の毒だったが、俺は今日から犯人探しと『最後の予言書』探しに動くつもりだ。プリンタ探しも2階・3階の図書館部で引き続き行なう。天才高校生探偵として、やるべきことはやるつもりだ。どうだお前ら、俺の下で働くつもりはないか?」
純架は両手で自分の頬を挟み変顔をした。
「全然ありません」
須崎が純架のすねに蹴りを入れる。純架は転がって悶絶した。
馬鹿な奴だ。
「ふん、つまらん奴らだ。まあいい。さあ、厨房へ行くとしよう」
北西の角を曲がり、管理人室の壊れたドア――ガムテープで閉じられている――の前を通って厨房に到る。晴香さんがドアの外で腕を組み、いらいらとかかとを上下させていた。純架が不思議がる。




