203生徒会長選挙事件04
俺は倒れこんだままシリアスに語る彼を蹴飛ばしたい欲求にかられた。
「おいおい弱気だな。とにかく手分けして噂の払拭にかかろうぜ。高梨さんに投票してくれるよう、何とか人数を稼ぐんだ。奈緒、チラシの原案作ってくれるか?」
「お安い御用よ」
友里が椅子から立ち上がる。
「私も手伝います。すみません皆さん、私のために……」
そこで男のものらしきどら声が廊下からとどろいた。
「頼もう!」
純架が椅子を元に戻しながら受け答える。
「はい、どうぞ」
ドアががらがらと開いた。現れたのは幕下力士のような太っちょ、2年3組の輪島陽太先輩だった。
「おう、『探偵同好会』はこちらじゃったかのう?」
「輪島先輩じゃないですか! どうされたんですか?」
輪島先輩は一人きりらしく、連れはいなかった。
「おんしらに話があるじゃきぃ。ここは今、高梨友里の選対本部なんじゃろ?」
俺は頬を掻く。
「はあ、そうですが」
輪島先輩は突如仁王立ちのままプルプルと震えだした。まるで山が鳴動するようだ。
「話というのはこうじゃ。……頼む! 高梨友里!」
いきなり友里に向かって土下座した。驚愕する友里と『探偵同好会』一同に、輪島先輩は更にとんでもないことを口走った。
「どうか出馬を辞退してくれい!」
友里は輪島先輩の奇行と奇声に、無形の往復ビンタを食らったようだった。
「……ええっ?」
純架は呆れを通り越して哀れみさえ感じているらしい。
「あの……なんでまた……」
輪島先輩は額を床にこすりつけ、この状況の解説染みた言葉を発する。
「このままじゃわしは、2年2組の小向夏樹には勝てん! おんしらも知っておるじゃろう、奴に好意的な噂の数々を!」
「はあ、まあ」
「もう大勢は奴有利で運んでおる! 今更新聞部辺りが騒いでもどうにもならんほどにな。 じゃがこんな無責任な噂を否定せずそのまま放置し、あわよくば当選を狙うという奴の作戦はどうじゃろか? とても許しがたいとは思わんか?」
友里はおろおろとするばかりだ。対立候補の思わぬ姿に、早く顔を上げてほしいと思っているのだろう。
「それは、まあ……」
ここで輪島先輩はがばっと頭をもたげた。その相貌は紅潮し今にも噴火しそうな勢いだ。
「じゃからお願いしたいんじゃ! どうか辞退してくれい! そうすれば小向夏樹とわしの一騎打ちになり、わしにも勝算が出てくるという寸法じゃあ!」
部室は静寂に包まれた。誰もが返事できないでいる。俺は純架とひそひそ話し合った。
「この人、情勢が全く見えてないな」
「だね。どうしようか?」
そんな中、友里が意を決したように進み出て、輪島先輩の目前に立った。先輩は再び土下座する。
「頼む、頼む高梨友里!」
「輪島先輩……」
友里がしゃがみ込み、輪島先輩の肩を優しく叩いた。これを承認の意思の表れと取ったか、輪島先輩は随喜に満ちた面を上げた。
「おお! 決心してくれたか!」
友里は静かに首を振る。
「いいえ。私は決して辞退なんかしません。ごめんなさい。お引き取りを……」
輪島先輩の表情が強張り、地獄の餓鬼の様相を呈した。憤怒が安堵を駆逐する。
「何でじゃあ! 高梨友里! わしの言うことが聞けんっちゅうのかあ!」
大音じょうが室内に響き渡る。まるで駄々っ子がわがままを通そうとするかのようだ。
「はい。すみませんが……」
友里はしかし、恐れをなすこともなく冷静に、なだめるように答えた。それが消化剤の役割を果たしたか、輪島先輩は唇を噛み締め鎮火していく。
「わけを……わけを聞こうじゃないか。なぜ辞退してくれんのか、そのわけを」
友里は透き通った声で答えた。
「兄に追いつきたいからです」
「は?」
輪島先輩が呆けたように口を開けっ放す。友里は丁寧に説明した。
「私には年の離れた、現在社会人の兄、高梨雄治がいます。私は彼を慕っています。彼は5年前、この渋山台高校3年生のとき、生徒会長を務めました」
ほう。これは俺も知らなかった。『探偵同好会』メンバーも初耳らしく、女候補の話にじっと聞き入っている。
「兄は皆の嫌がる仕事を進んで引き受け、心無い文句や非難に屈せず、1年間の任期をまっとうしようと努力しました。ある日私は兄に尋ねました。何故そこまでして生徒会長職を務めるのか、と」
輪島先輩は「いつまで話してるの?」と言いたげな、うざそうな顔をしている。この人、自分が話すときにはあれだけ情熱的だったのに、いざ聞く側に回ると非情だな。
友里は気付かないらしくとうとうと続ける。
「兄は答えました。『だって、世の中は人と人との結びつきで出来てるだろ? 小さいところでは俺たちは兄妹だし、この家は家族だし、企業も宗教も社会全体でさえ、その原則からは外れていない。人間同士の交流こそが世界の要なんだ。それをより良くしようとすることは、一番立派で大切な仕事なんだよ。……格好いいこと言ったけど、要は生徒会長として頑張るってことは、つまりは俺の生きがいってわけさ。分かったか?』」
俺はこの話に感心した。それだけ目的意識を持っていたなら、生徒会長の雑務も苦にはならなかっただろう。
「そして兄は、卒業と共に無事任期を満了し、後輩に道を譲りました。私はそんな彼の背中に憧れたんです。私もこの渋山台高校に入学したからには、生徒会長になってみんなのために働こう、汗水流そう、とそう決めました」
友里は立ち上がり、正確に二歩後退した。両膝をついて見上げる輪島先輩に、堂々と言い放つ。
「私のこの決意は揺らぎません。輪島先輩、お引き取りを。正々堂々選挙を戦いましょう」
話は終わった。輪島先輩はもはや自分の行為が無駄で無益とさとったのか、ぶつぶつ言いながら引き下がった。身を起こしてドアを開け、廊下へとのしのし歩く。
「おんしじゃ勝てんっちゅうのに……」
闖入者は退去した。俺たちはやれやれと肩をすくめ合った。太ったピエロの見苦しい熱演で感じた不快感を、友里の演説が吹き飛ばしてくれた感じだった。
俺は気を取り直して奈緒に頼んだ。
「じゃ、チラシを制作しようか」
「そうね」
そして一分後には綺麗さっぱり輪島先輩のことを忘れ去っていた。
出来上がったチラシは、高梨友里の名前と『潤滑円満な生徒会を!』という公約を載せた、そこそこの完成度のものだった。早速帰り道、純架と共にコンビニでコピーする。お互い明日の朝までに点線切りを終えようと約束し、半分に分けて持ち帰った。
家の扉を開け、玄関に入る。男物の黒い革靴があった。お袋の交際相手、富士野三郎さんが来ているのだ。他に見慣れぬ女物の靴もある。これは何だろう? まあいい、一応挨拶しておこうと考え、俺は居間に向かった。
やはり彼はいた。何とダンディな服の上にエプロンを着けて、キッチンでフライパンを焦がしている。スパゲッティを作っているようだ。その様子を、お袋の朱雀美津子が頬を押さえてにこにこ見守っていた。
俺は何が何やら分からず、とりあえず「ただいま」と挨拶して室内に入った。
「あら、お帰り、楼路」
「やあ楼路君、お帰り。ちょっとそこで待ってて。今人数分のぺペロンチーノをこしらえてるんだ。すぐ出来るから、大事な話もあるし、皆で仲良く食べよう」
三郎さんは七三分けで、染めているらしく髪は年齢の割りに黒々としている。なかなかハンサムと言っていい部類の顔で、各パーツの均整が取れていた。出版社『中山書店』の渋山台支店に勤務しているという。お袋とは病院の待合室で出会い、意気投合した。
大事な話、か。そうか、とうとう……




