020タカダサトシ事件04
散々歌いつくした俺は、喉の調子を悪くして帰宅した。今日の料理当番は兄貴の賢だ。俺は普段着に着替えるとキッチンに向かった。
両親がテーブルについていた。打ち沈んだ、この世も末かと案じるような絶望的な顔。兄貴も無言で彼らに対面している。まるでお通夜だ。
皆が入室した俺に気づいて一斉に振り向く。お袋がしわがれた声を出した。
「楼路、座りなさい。大事な話があるの」
俺は上々だった気分に冷水をぶちまけられた。「大事な話」とやらは想像がついた。大人しく席につく。親父とお袋は目線を交錯させた。
「私たち、今度正式に離婚することになったの」
俺は足元から闇が這い上り、心臓を取り巻いたように感じた。どこかで楽観し、あまり仲裁に入らなかった過去の自分を後悔する。だが、もう手遅れだ。
二人はこの数ヶ月間幾度となく話し合った。怒鳴り合いまでした。それは結局、離婚という結末へ転落する前段階だったのだ。俺は二人の指を見た。結婚指輪はどちらの手からも見出せない。覚悟はできている、ということだ。
「もうあまり時間がないわ。楼路」
お袋が俺をひたと見る。
「あんた、どちらについていきたいの?」
これほど葛藤を要する質問は中間テストでもなかった。というより、生まれてこの方、こんな残酷な問いかけはなかったといっていい。
俺は窒息しそうな息苦しさに襟元をくつろげた。
「どっちって……」
三人の目が俺を注視する。俺はテーブルの下で拳を握ったり開いたりした。「離婚なんてやめようよ!」とは言えない。俺の想像を絶する極めて困難な人生を、二人はすでに歩もうと決めているのだから。
俺に言えたのはしょうもない答えだった。
「時間をくれ」
親父が低音の声をかけてくる。
「賢は俺についてくるといった」
兄貴はすまなそうにうつむいた。お袋が若干身を乗り出す。
「もうあまり時間はないよ。来週中には結論を出して」
「分かった」
兄貴が立ち上がる。
「話はそれだけだ、楼路。夕食にしよう」
家族はばらばらに立ち上がった。俺はこの食卓がもうじきなくなるんだ、と思って泣きそうになった。
ネットニュースでは『古志慶介転落』事件を取り扱うものもあったが、俺と純架が知る以上の情報はなく、ついたコメントも揣摩臆測の範ちゅうを出なかった。こういうときネット民の愚かさに頭を抱えたくなる。かく言う俺もその一人なのだが。
一日の休日を挟んで学校が再開したが、テレビやネットで見る限り、事態が進展した様子はない。雲が散見されるもまずまずな天気の下、俺は授業の新章に耳を傾けてその日を過ごした。
俺も、そして純架も、古志の転落は逃げた二人組の仕業だと確信していた。だから放課後、1組に集った俺たちと奈緒は、日向のもたらした情報に耳を疑った。
「自分で転落した?」
純架が珍しく素っ頓狂な声を上げた。
「どこからそんなこと聞いたんだい?」
日向は答える。
「北上先生です。英語教師で1年2組担任の北上孝治先生は、私の叔父なんですよ。むこ養子なんです」
奈緒が息を呑んだ。
「そうなんだ。全然知らなかった」
純架は頼もしげに日向を見つめた。
「北上先生に質問したんだね」
「はい。『口外しないでね』と前振りして、色々知りたかったことに答えてくれました」
俺は呆れた。
「口外してるだろ」
「まあまあ。新聞部の一員は事実を追及するのが一番ですから。この話は皆さんにしかしませんし、皆さんが秘密にしてくださればいいわけですから」
純架は嬉しそうに両手をこすり合わせた。
「それで、北上先生は何と?」
日向の舌は軽やかに回転する。
「今、古志さんの在籍する1年1組は担任不在です。青柳先生が暴力事件を起こして謹慎しているからですが、それで代わりというか、兼任しているのが2組の北上先生なんです」
奈緒が感心した。
「そうだったんだ」
「はい。それで北上先生は古志さんの入院している病院へ見舞いに行きました。古志さんは誰にも会いたくないと看護師さんにもらしていたそうですが、北上先生は事件の解明のためと押し切って、どうにか面会にこぎ着けました。古志さんは渋々先生の質問責めに応対したそうです。そこで古志さんが言ったのが――」
純架が引き取った。
「『自分で転落した』ということかい」
「はい。二人組はいたかも知れないが、自分には関係ない。自分が度胸試しで飛び降りたんだ、ということです。北上先生は当然嘘だと考えてますが、なんでそんな嘘をつくのかまでは分からなかったそうです」
奈緒は首を傾げた。
「誰かをかばってるのかな?」
「さあ。そこのところは全く分かりません」
人影もまばらになってきた教室で、純架が椅子に座り直す。
「じゃあ頼んでおいたことを聞かせてもらうよ。古志君の人間関係について」
日向は胸を叩いた。
「任せておいてください。きっちり調べましたよ。まず古志さんは、皆川源五郎さんと昵懇の仲らしいです」
皆川といえば、1組の担任である青柳先生と取っ組み合った奴だ。眉毛がないなど、明らかに人相風体の悪いところがある。
純架がうなずいた。
「そうなんだ。暴走族『銀影』の仲間でもあるってこと?」
「いえ、暴走族と関わりがあるのは古志さんだけのようです。皆川さんは誘われているようですが、加入までには至っていません。そのことが古志さんは不満だったようですが、仲たがいまでにはならず、よく二人でつるんで体育をさぼったり女の子にちょっかいを出したりしていたらしいです」
俺は思慮の浅い質問をした。
「辰野さんは二人に何か言われたことある?」
「私ですか? 私は別に何も。どちらかといえば冴えない格好ですから、興味を惹かれなかったのでしょう」
そんなことはないと思うが……。日向は続ける。
「それから古志さんの周囲の人間についてですが、真島篤さんによくちょっかいを出していたようです」
聞いたことない名前だ。
「それはそりが合わないって事?」
「いいえ。いじめっ子といじめられっ子の関係だったらしいです。古志さんは真島さんを使いっ走りにしたり、意味もなく乱暴を振るったり、あまり健康的とは言えない関係にあったようです」
いじめか。俺はうすら寒いものを感じた。
「古志さんにいじめられている人は他にもいました。華原亮二さんです」
「聞いたことある名前だな。誰だっけ?」
純架がすらすらと言った。
「加賀谷真奈美さんと一緒に、青柳先生と皆川君の取っ組み合いを目撃した生徒だよ」
「ああ、そうだったっけ」
大した記憶力だ。俺は心中で舌を巻いた。日向が人差し指を立てる。
「華原さんも古志さんと皆川さんに不当な暴力と脅しを受けていたらしいです。あるときは便器に顔を突っ込まされたり、あるときはバケツの水をかけられてびしょ濡れになったり……。それはひどかったそうです」
プロレス団体の新弟子に対する可愛がりじゃあるまいし、今どきそんなのがまかり通っているのか?
奈緒が青ざめて両肘を抱きかかえた。
「まだ5月の下旬だというのに、ずいぶんエスカレートしたものね」
純架は特に感情を揺さぶられるでもなかった。
「そんなものだよ、いじめなんてね。仕掛ける方はまるで当然の権利とばかりに要求をつのらせていくものさ。それで、古志君と皆川君に被害を受けているのはその二人だけ?」
「まだまだいるかもしれませんが、調査した限りではこの二名だけです」
純架が俺に笑いかける。
「多分この二人だね、古志君を突き落としたのは」
俺は純架がぼけたのかと思った。
「何言ってんだ、古志は自分で転落したって証言してるんだろう?」
「それはね……」
純架は両手の指をつき合わせて椅子に深く腰掛けた。




