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187冬の転校生事件04

「え、いや、その……」


 奈緒はしかし、そんな俺の態度を一刀両断した。


「嫌よ。私、もっとムードのあるキスがしたいもの。こんな人混みの中じゃなく、もっとロマンティックな場所で。だってファーストキスは生涯に一度しかできないんだよ。それが藤原君への対抗心だけで行なわれるなんて、ちょっと寂しすぎるわ」


 俺はぐうの音も出ない。奈緒は俺の手を引いて歩き出しつつ、語を継いだ。


「楼路君、しっかりしてよ。君が揺らいでどうするのよ。私が好きなのはあなただけなんだから」


 俺は彼女の言葉に、そしてその手の温かな感触に、ようやく自分の愚行を思い知った。


「……ああ。ごめんな、奈緒」


「ううん。こっちこそごめんね」


 自動改札機を通過し、駅構内に入る。奈緒は歩を停止させてこちらへ振り向いた。両手を後ろ手に組んで、にっこり笑う。


「じゃ、私帰るから。さようなら、楼路君。また明日ね」


「おう。気をつけて帰れよ」


 奈緒は手を振りながら、反対側の下りのホームへ歩いていった。




 その夜、俺は自宅にやってきた純架を部屋に招き、ポテトチップスを食べながらだべっていた。純架はこのコンソメ味が好きらしく、好物を前に無遠慮に手を動かす。


「そうかねそうかね。キスは断られたかね」


 俺はミルクコーヒーのカップを傾けた。


「何とか逆転満塁ホームランを打ちたかったんだけどな。結果は空振り三振さ。上手いこといかないもんだ。まあ奈緒に無理強いするのもどうかって話ではあるけど」


「でも飯田さんははっきり君が好きだって言ったのだろう? その気持ちを信じてやらなくてどうするんだい」


 俺はポテチをバリバリ噛んだ。


「お前は恋をした事がないから分からないんだ。この焦燥感、胸をかきむしられる思い……。藤原の馬鹿が転校してきてからというもの、俺は嫉妬と疑惑の塊になっちまった。藤原の奴、このまま風邪でも引き続けて二度と登校しないでくれればいいのに……。それか、また転校してくれるか」


 純架は「必殺! 三枚食い!」と叫んでポテトチップスを三枚重ねて食べた。


 ずいぶん無意味な必殺技もあったものだ。


「それはそうとだね、楼路君。ちょっと耳に入れておきたい事があるんだ」


 居住まいを正した純架に、俺は気のない視線を向ける。


「何だ? 今の俺にわざわざ話したいことって……」


「藤原君のことなんだけどね」


 俺は嫌な顔をした。


「また藤原か。いい加減にしてくれ」


「まあまあ。彼、どうもおかしな行動を取るんだよ」


「おかしな行動? やれやれ、何でも気になる純架様ってわけか」


 純架は心なしか声を低めた。俺たち以外に誰も聞くものがいないというのに。


「真面目な話だよ。藤原君、聞いた話じゃ連れションを嫌がるらしいんだ。絶対に行かないってね。久川君や三好君、牧田君、岩井君とか色んな男子が休み時間に声をかけるんだけど、『尿意をもよおしていない』って断るんだ」


 あまりにもくだらない話題に俺は心底げんなりした。


「それがどうしたんだよ。言葉通りじゃないか」


「でも一度もないって変じゃないかい?」


「別に。あるいは別の理由があるのかも知れないが……物が小さくて恥ずかしいとか」


 純架は気乗りしない俺に、多少いらついたようだ。


「うん。まあそんなところなんだろうけどさ。悪かったよ、変なこと言って」


「ああ、本当にどうでもいい話題だな」


 俺はカップのコーヒーを飲み干した。


「ああ、奈緒……」


 自然と嘆息が零れ出て、俺は次なる一枚を食しようと手を伸ばす。


 だがポテトチップスの袋は既に空になっていた。




 翌日もその翌日も、俺と誠と奈緒の三人で摂る昼食をリードし、奈緒の笑いを誘ったのは誠だった。俺はどんなネタにも笑えず、ただ不味く感じる飯を完食するのに四苦八苦していた。奈緒は誠と本当に楽しそうにお喋りし、時たま思い出したように俺に話題を振る。俺は惨めな気分でいたたまれなくなった。


 誠が来てからというもの、俺の心は絶えず波紋を生み出し、一向にぐことがなかった。




 カレンダーが2月に変わって間もなく。1年3組生徒は体育のため、男子更衣室で体操服に着替えていた。凍えるような寒さはしかし降雪という分かりやすい形を取らず、俺たちの肌を鋭利な刃物で突き刺すようだ。俺は広いとは言えないこの部屋で、体操服の上にジャージを重ね着した。校則で、どんなに寒い冬期でもこの二枚重ねしか許されていないのだ。時代錯誤もはなはだしいが、何故か伝統は覆らない。


 その際、俺は誠が部屋の隅の方でてきぱきと着替えているのを見出した。どういうわけか、彼は黒いタンクトップとスパッツを身に着けたまま、上から体操服を着込んでいる。下はともかく、上は明らかな校則違反だ。


 俺はこの転校生が、未だ珍奇な校則を知らないのだと勝手に判断して注意した。


「おい藤原、何だ、寒いのか? でも上は素肌に体操服だぞ。校則は守れよな。先生方に見咎められるぞ」


 誠は青いジャージに袖を通しながら、


「大丈夫。先生方と話はついている」


と応じた。俺は妙なこともあるものだと思った。


「寒がりなのかよ」


「ああ、まあそんなところだ」


 誠はジャージのジッパーを上げると、「お先」と呟いて更衣室を出て行った。




 その後、休み時間に藤沢、桜庭と話していた誠が席を立った。藤沢が何気なく尋ねる。


「何だ藤原、トイレか?」


「ああ、そんなところだ」


 誠が教室の外に消えてから、やや遅れて純架が椅子から離れる。俺が声をかける間もなく、彼も戸口の奥へと姿を消した。藤原を連れションにでも誘うつもりなのだろうか。


 だがしばらくしてまず純架が、次いで誠が帰ってくる。二人仲良く便所に行ったわけではなさそうだ。両者は特に話さなかったのか、何事もなくそれぞれ自席に着いた。




 その放課後、『探偵同好会』部室に会員全員が集まった。最近は特に事件もないので、ただ無駄話に花を咲かせるだけだ。誠は相変わらず俺を無視し、奈緒と親密に話し込んでいる。最近は奈緒も俺に気を使い、なるべく誠とは距離を置くようにしているのだが、彼はずかずか踏み込んでくる。結果、俺はやっぱり生き地獄を味わうはめとなるわけだ。俺は温かい紅茶を手に、何の味もしないそれをただむなしく飲むばかりだった。


 しばらくして純架が誠に声をかけた。


「藤原君、ちょっと重要な話があるんだ。楼路君も。三人だけで語れる場所に移動したいんだけど……」


 誠の返事はにべもなかった。


「お断りだね。今は奈緒と楽しく話してるんだ、そんな暇はない。また今度にしてくれ」


 純架は気分を害された風でもなかった。


「藤原君、君も『探偵同好会』の一員なんだよ。申請書を提出した以上はね。僕は同好会の会長だ。会長命令には従うのが義務というか筋というか、まあそんなところだよ」


 誠はそれまでついていた頬杖をやめた。


「やれやれ、仕方ないな。奈緒、また後でな。じゃ行こうか、会長殿」


 純架は俺たちを連れて、ひと気のない旧棟脇の1階植え込みの側まで足を運んだ。周囲はほぼ静謐せいひつな状態で、吹奏楽部の演奏が遠く聴こえてくるのみだ。純架は歩を止め、俺と誠に振り返った。

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