170年始の失踪事件04
ゆかりさんが俺に問いかけた。
「あなたが朱雀楼路さん、でいいんですよね?」
「はい、そうです」
俺の前に座り、衰え始めた肌の手を伸ばして、俺の拳を握った。
「どうかお願いです。当時の詳しい状況を教えてください。既に警察から聞かされてますが、改めて本人からおうかがいしたいのです。あの子の帰宅に繋がりそうな情報が、まだ残っているかもしれませんから」
俺は他人に対して四度、田辺明雄とその連れの女を見たときのことを話した。それは夫婦の落胆を誘ったらしい。警察から教えられた以外の新事実がなかったからだ。もちろんそうなるだろうと、俺も予感していたが……
「他には、他には? どんな些細なことでもいいんです、気になったことが一点でもあれば、どうか教えてください。それが明雄の生還に役立つはずですから」
「と言われましても……」
俺が答えに窮すると、幹靖さんが暴走する妻の肩を叩いた。
「もういいだろう。朱雀君も困っているじゃないか」
「あなた……」
ゆかりさんは途方に暮れた様子で背もたれに身を預けた。今度はこっちが聞く番だ。それは純架も察したらしく、膝を進めて問いかけた。
「それで、未だに田辺君から連絡はないんですか?」
幹靖さんが額に手を添える。
「ええ。スマホも置きっ放しで、私たちのお金には手をつけず、何の音沙汰もありません。朱雀君の話では、とりあえず元気らしいので、それは良かったのですが……」
うつむく顔が痛々しい。
「なぜ明雄は、私たちに一言の相談もなく、その女性のもとに行ってしまったのか……。理由があるなら聞かせてほしいぐらいです。あいつには放任主義と言うか、好き勝手をやらせていました。ちょっと突き放すぐらいの関係を保っていたんですね。それでも志望校だった渋山台高校の受験に合格するなど、結果を出してくれていましたからね。私たちの育て方は間違っていなかったと、そう喜んでいたのに……」
純架は沈痛な面持ちだ。
「それはともかく、田辺君保護に関する進展は現状ないわけですね?」
答えたのはゆかりさんだ。
「はい、何も」
純架は立ち上がった。
「長らくお邪魔しました。僕らはそろそろ引き上げます」
俺は彼の足をつついた。
「もういいのか?」
「うん。田辺君のスマホも部屋も、ご夫妻や警察が調べ尽くしたんだ。その後何も起こっていないなら、僕らは別の線を追うしかないよ」
帰り道、奈緒は真菜の暴走つきまといぶりをうんざり眺めながら、純架に問いかけた。
「別の線って、やっぱり女の子の方よね?」
純架は慣れてきたのか、真菜のキスを首をひねることでかわす。
「冴えてるね、飯田さん。その通りだよ。高校生ぐらいの年齢に見えたんだよね、楼路君?」
俺はうなずいた。
「ああ。ちょっと化粧が濃い目だったが、間違いない」
「そして田辺君との仲は悪くなさそうだった、と」
「そうだな」
「彼女の『行こう』という言葉は、楼路君たちと同じイントネーションだったんだよね?」
「そういえばそうかもしれない」
純架が俺の肩を叩いた。
「となると、近隣の高校の女子生徒全ての中に、きっとその子がいるはずさ。頑張ってくれたまえ、楼路君」
酷い宣告に、俺は仰天した。
「ええっ? まさか、俺に全部調べろって言うんじゃないだろうな」
純架は当たり前だとばかりの顔をした。
「そのまさかだよ。女性の顔を直接知っているのは君、朱雀楼路君だけなんだからね。何、卒業アルバムは僕が近隣の各中学校・高校に頭を下げて借りに行くから、君は教室や自宅でただひたすら面通ししてくれればいい」
俺は頭を抱えた。
「嘘だろ……」
日向が励ましてきた。
「私たちも、警察の方が作成した似顔絵をもらって、出来る限り協力します。新聞部にも捜索のお手伝いをしてくださるようお願いします。朱雀さん、頑張って」
俺はちっとも慰められず、明日からの激務を思って溜め息をついた。
「はあ……。『探偵同好会』って、大変だな……」
夕暮れ時、俺は帰宅した。玄関に見慣れぬ黒い革靴が置いてある。男物だ。誰か客人だろうか。俺は挨拶しておこうかと思い、居間に向かった。
「ただいま」
そこにはテーブルを挟んで向かい合う、お袋と見知らぬ中年男性の姿があった。紅茶のポットが置かれ、二人の前にカップが据えてある。お茶で会話を楽しんでいたのだろう。
お袋が振り返り、華やいだ笑顔を見せた。
「お帰りなさい、楼路」
男の方が椅子から腰を離す。
「お帰りなさい。君が美津子さんのご子息の楼路君だね」
「はあ……」
「僕は富士野三郎。お母さんと親しくさせてもらっているよ」
三郎さんは七三分けで、染めているらしく髪は年齢の割りに黒々としている。なかなかハンサムと言っていい部類の顔で、各パーツの均整が取れていた。若々しくダンディズムに溢れ、着ているスーツも上等だ。年齢は50歳手前辺りか。
お袋に優しく話しかける。
「彼に言ってもいいかい?」
お袋は点頭した。三郎さんが再び俺に視線を向ける。その目と口調は務めて紳士的だった。
「実は僕は、君のお母さんの美津子さんと交際している。結婚を前提にね」
俺は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「本当ですか?」
三郎さんの眼差しは暖かだった。
「うん。去年の師走に美津子さんが風邪を引いたことがあったよね?」
俺は特に苦労せずその記憶を探し当てた。
「はい、高熱で病院に行きました」
「そのとき僕も具合が悪くてね。待合室で美津子さんと隣同士の席になったんだ。暇だったから僕から話しかけた。すると会話が弾んでね、意気投合した。僕は出版社『中山書店』の渋山台支店に勤務していてね、好きな書籍の話で盛り上がったんだ」
ああ、お袋は本好きだったっけ。
「それでまた会いたいとなって、電話番号を交換したんだ。それからさ。頻繁に会って、食事を共にしたりするようになったのは」
話の間、お袋はばつが悪そうにしていた。親父の朱雀涼と離婚してから、まだ一年も経っていない。二人の繋がりを消さぬよう、『離婚の際に称していた氏を称する届』を役所に提出もした。それなのに再婚話だというのだから、何というか、呆れてしまう。最近こそこそどこかに出かけているな、と思っていたら、そういうことだったのか。
三郎さんは屈託のない笑顔を見せた。
「というわけだから、よろしく、楼路君」
「はい、よろしくお願いします、富士野さん」
俺は差し出された手を握り返した。お袋がほっとしたように微笑む。どうやら俺は、このままいくと「富士野楼路」となりそうだ……
三郎さんが帰り――どうやら娘がいるらしい――、うちの夕食も終わったところで、タイミングを見計らったかのように純架が来た。
「さあ楼路君、善は急げだ。君の中学校卒業アルバムを調べてみようじゃないか」
「ええっ? 今からかよ」
これが地獄のチェック作業の始まりだった。
俺が日曜日に見かけた女は大分けばけばしかったし、多分高校デビューでイメチェンしたんだろう。その原石を探し、発見するというのは、結構体より心にくる作業だ。俺は卒業生の女子の顔写真を一枚一枚点検していく。記憶を頼りに失敗が許されないその行為の、精神的な負担はかなりのもので、終わった頃にはぐったりしていた。




