015変わった客事件04
やっとやる気を出したようだ。
「その人の名前は光井欣也、だっけ? 6年前まで県警刑事部捜査第一課で働いていたんだっけね。60歳で定年だとすると今66歳か」
「それで何か分かるのか?」
「6年経っている、そこさ。明日は6日、土曜日だっけ。図書館は開いてるかな?」
「そういえばお前、引っ越してきたばかりだったな。開いてるよ。いつもより閉館時間が二時間早いけど。……って、図書館に何かあるのか?」
「分からない。行ってみないとね。『探偵同好会』会長として、僕が光井さんの謎を必ず解き明かしてみせるよ。何としてもね。泥舟に乗ったつもりで安心したまえ」
沈んでしまう。
5月6日。長かったようで短かったゴールデンウィークも明日で終わり。土曜日ということもあって、客はひっきりなしに来店した。もちろん光井さんもだ。
俺の人生初のアルバイトは、どこか見知らぬ異次元に迷い込んだような感覚のまま終わろうとしている。光井さんと出会い、その正体を突き止めたがったのも、そうした亜空間の中で揺動した結果だ。明日が終わり、明後日月曜日ともなれば、また学校の授業が繰り返される日々が始まる。そうなれば『シャポー』も『MIKI FLOWERS』も引ったくりも光井欣也も、もう俺と関わりなくそれぞれの未来を歩んでいくことになる。それが俺には少し寂しかった。
光井さんはやはり2時に帰った。俺は帰宅後、そのことを報告がてら純架に電話した。
「どうだ? 図書館に行って何か分かったのか?」
純架の返事はのらりくらりしていた。
「明日、僕が『シャポー』に行くよ。そこで光井さんと話そう。何たって僕は、光井さんと会ったことさえないんだからね。答え合わせに応じてくれるかどうか、そこが心配だよ」
「何か分かったんだな。ちょっと教えてくれよ」
「明日がゴールデンウィーク最終日なんだよね、楼路君。君はこんな挿話に心を寄せることなくアルバイトに集中するべきだ。そして稼いだ金を僕のポケットにねじ込みたまえ」
誰がするか。
と、そういえば。
「明日、飯田さんを呼んでもいいか? 彼女も知りたがるだろうし」
「いいよ。というか彼女は『探偵同好会』の秘書なんだ。来て当然というべきだよ」
そしてとうとう5月7日が訪れた。
「よく頑張ったな、坊や。見直したぞ。最後の勤務を楽しもうぜ」
桜さんがにこやかにほめてくれる。俺はちょっと泣きそうになった。
「本当は継続して来てほしいんだけどねえ。高校生だからねえ……」
春恵さんがしみじみ話す。お腹の赤ちゃんの誕生が待ち遠しい。そのかたわらに敏晴マスターが寄り添った。
「さあ、開店だ!」
黄金週間の終わりとあって、店は早くから混み始めた。このバイト中に何百という客を見てきたが、多くは常連さんで、この店の歴史の長さ、周辺への定着度を如実に思い知らされた。朝食時が終わるとようやく一息つける状態になる。そして今日もまた、光井欣也さんが空いたばかりの四人掛けの席に座った。今では彼の姿を見るたび、「もう11時か」と気づかされる。完全に人間時計となっていたのだ。
それから昼時の混雑を経て、午後1時45分、純架が現れた。彼は両手の人差し指と中指を伸ばし、まるでハサミのように開閉しながら、中腰の状態で入店してきた。「ワ・タ・シ・ハ・ウ・チュ・ウ・ジ・ン・ダ」とのたまいながら、カニ歩きで店内を闊歩する。その顔は羞恥で真っ赤になっていた。
だったらやるなよ。
「やあ楼路君、アルバイト、張り切ってるね」
純架は俺を茶化した。遅れて入ってきた奈緒が微笑む。
「朱雀君、またまた来ちゃった。すっかり板についてきたね、その衣装」
俺は二人を席に案内した。周囲の客が純架に視線を集中する。俺は今ではすっかり慣れ切っていたが、純架は美少年なのだ。そのことをつい忘れがちになる。
光井さんのすぐ近くの四人掛けの席で、純架と奈緒はカフェオレを注文した。あれ? 光井さんの件で来たんだよな。俺は純架に耳打ちした。
「おい、くつろいでどうするんだよ。光井さんの謎を解くんじゃないのか?」
純架は首を振った。
「せめて2時まではそっとしておいてあげようよ」
光井さんはカフェラテを前に、今日も11時からずっと窓の向こうを見つめていた。その姿はどこか荘厳で近寄りがたい。
俺は仕事をこなしながら腕時計に目を落とした。ちょうど2時を回ったところだ。
「すいません」
光井さんが片手を挙げて俺を呼んだ。
「オムライス一つお願いします」
一瞬聞き間違いかと思った。このゴールデンウィーク中、カフェラテ以外頼んだことのない光井さんが、初めて食べ物を注文したのだ。
「オムライス一つ、かしこまりました」
俺はマスターに商品を要請した。
そこで純架が動いた。自分の席を立つと移動して、光井さんの目前のソファに腰を下ろしたのだ。奈緒も後に続いた。
純架は目を丸くしている光井さんを前に、両手を組み合わせてテーブルに載せた。
その後、純架は光井さんと何やらしきりと話しこんでいた。三井さんの両目に往年の光が宿るが、純架は決して気圧されることなく前傾姿勢で言葉を並べる。
俺はウェイターとして働きながら、話が聞きたくてもどかしかった。出来上がったオムライスを光井さんの元へ届けるとき、俺は話の断片でも聞けるかと期待したが、彼らは俺が近づくと黙ってしまった。そして俺が立ち去ると、また堰を切ったように喋りだす。おいおい、それはないんじゃない?
やがてオムライスを食べきった光井さんは、勘定を済ませると店を立ち去っていった。純架と奈緒も自分の注文したものを飲み干し、やはり店を後にする。
結局、俺は何の話も聞けなかった。
「お疲れ!」
桜さんが俺の肩をはたく。俺は既に私服に着替え、帰路につくところだった。
「これで坊やともお別れか。名残惜しいな」
「坊や呼ばわり、結局変えてくれませんでしたね」
「馬鹿、あんたみたいなヒヨッコを名前で呼ぶもんかよ。……でもまあ、そうだな。うん、よくやったよ、朱雀」
俺は胸が熱くなった。
「先輩、ありがとうございました」
敏晴・春恵夫妻にも頭を下げる。
「今回は本当、お世話になりました。今度は客として来ますね」
「ああ、大歓迎だよ。達者でな」
「気をつけて帰るんだよ。給与は後で振り込むから楽しみに待ってるんだね」
「はい!」
俺は人生の大海原を航海中にたまたま立ち寄った島『シャポー』に別れを告げた。
明日からまた学校だ。俺は自室のベッドに飛び込み、今日の疲れに呻吟した。眠気が押し寄せてきて、俺の思考を侵略する。俺はやがて、深い眠りに――
携帯の着信音が高々と鳴り響いた。俺は安眠を妨害されて中っ腹になってスマホを手にした。純架からだ。
「もしもし」
「やあ、楼路君。光井さんの話なんだけど」
俺は瞬時に覚醒した。
「それだ。俺はそれを聞きたいんだ」
「じゃ今からそっちに行くよ」
「電話じゃ駄目なのか? かけ放題に加入してないなら、一度切ってこっちからかけ直すけど」
「僕が行ったほうが早い。光井さんとの会話を録音したICレコーダーがあるんだ」
「なるほど……」
そうして5分後、俺の部屋には純架がいた。出したコーヒーを素直に飲む。
「多少雑音はあるがね。じゃ、聞きたまえ」
ICレコーダーを再生する。俺は待ち切れず耳を傾けた。




