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131自販機のお釣り事件03

 日向はその首を縦にも横にも振らない。溜め込んだ悲哀に押し出されるように言葉を吐き出す。


「聞きたくなかった。桐木さんの口から、あんな悲しい通告、聞きたくなかったんです。桐木さんにとって、私はそんな軽い存在だったなんて……知りたくなかった……」


 また感情が高ぶってきたのか、日向は両手で鼻と口を覆った。見ていて辛くなるぐらい、その姿は痛々しかった。


 俺は一歩踏み込んだ。


「辰野さん、ひょっとして純架のことを……」


 日向は今度は首を振った。


「分かりません……。ただ、悲しくて……」


 そのときだった。誰かの野太い怒声がとどろいたのだ。俺と日向は目を見合わせた。


「何だ?」


「何でしょう?」


 日向はこんなときでもデジタルカメラを首から提げている。涙に濡れた両手がそれをまさぐると、彼女の持ち前の報道魂が噴出して、哀愁の雲を吹き飛ばしたのだろうか。日向は決然と立ち上がった。


「見に行きましょう」


 まだその目尻は濡れ、鼻は赤かったが、それ以外は通常の彼女と何ら変わりなかった。ともかくも彼女は泣き止んだのだ。どこの誰だか知らないがグッジョブ。


 俺と日向は怒鳴り声の応酬する方へ駆けていった。そこでは制服姿の3年生が二人、お互いを罵り合っていた。


「何じゃこらっ! 俺が悪いっちゅうんかこらっ!」


「お前が悪いに決まってんだろ!」


 たまたまその場を通りかかっていたのだろう、何組かの生徒たちが遠巻きにこの騒擾を見守っている。まあいわゆる野次馬だ。


 俺たちもその一部となって紛れ込む。手近な先輩に状況を尋ねた。


「何があったんですか?」


 返事ははかばかしくなかった。


「いや、さっぱり。まあ喧嘩だよね」


 それは見れば分かる。不意に日向が口元を押さえて口走った。


「あっ、あれは藪野やぶのさん……!」


「知り合い?」


 彼女はうなずいた。


「学園祭のレポートを書いたときに取材した、3年1組の方です」


 男二人はとうとうお互いの胸倉を掴んで喚き合う。やばい、殴り合いに発展しそうだ。


「辰野さん! 楼路君!」


 緊迫した場に切り込んできたのは純架の声だった。やっと俺たちを見つけたようで、ぜいぜい言いながら駆け寄ってくる。


「良かった、ここにいたんだ。辰野さん……」


「おらぁ!」


 藪野先輩がもう一人の肩を思い切り突き飛ばした。ああ、とうとうやったか。


 するとどつかれた方がよろめき、ちょうど純架の肩口に倒れ掛かった。二人は予期せぬ展開で、揃って廊下に尻餅をつく。


 純架が尻をさすって抗議した。


「痛いな。なんだい」


 倒れた男は藪野先輩に反撃するより、ぶつかった後輩の方に気を惹かれたようだ。腰の痛みに顔をしかめながら、純架を指差す。


「お前、見たことあるぞ。確か『探偵同好会』の会長の……何だっけ……ええと」


「松本潤、愛称まつじゅんです」


 違うだろ。俺に頭をはたかれ、純架は訂正した。


「桐木純架です。確かに『探偵同好会』会長ですが、それが何か?」


 乱暴な藪野先輩が、身長185センチはありそうな巨体を揺らした。汚い乱杭歯だ。


「それはちょうどいいな。なあお前、俺の話を聞いてどっちが悪いか判断してくれないか?」


「といいますと?」


 肩を突かれた方の男が立ち上がり、制服を叩いて埃を落とす。こっちは根性系スポーツマンといった風情で、やや目つきが悪い。


「俺は3年の角谷かくたにだ。言いがかりをつけられて迷惑している。桐木、お前こういう問題を解くの、得意なんだろう? ぜひ話を聞いてくれ」


 純架は疾走の余韻でまだ肩を上下させていたが、その両目は狂おしいほどに輝いていた。日向や俺をそっちのけで、目の前ににんじんをぶら下げられた馬よろしく、『謎』に相対する。やれやれ、どうやら純架の興味は俺たちから離れたらしい。


 純架は満足そうに首肯した。


「僕に任せてください。それじゃ、いきさつをどうぞ」


「まあ何、それほど大ごとじゃない――いや、大ごとだけどな、俺にとっちゃあ。あそこの角を曲がると自販機があるのは知ってるか?」


 藪野先輩が廊下の突き当りを指差した。


「そこには缶やペットボトルの飲料を収めた自動販売機が設置されている。まず俺があれを使ったんだ。100円玉を2枚、つまり200円を投入して130円のホットコーヒーを購入してな。俺は熱い缶を両手でもてあそびながら、意気揚々と教室に戻った。だが俺は気づいたんだ。お釣りを取り忘れていることに」


 純架は手を挙げ話を遮った。


「妙ですね。硬貨がお釣りの出口に落ちる甲高い音は耳にしたんでしょう? それで取り忘れることなんて考えられませんが」


「いや、俺は音楽が大好きでな。ちょうどスマホにステレオイヤホンを繋げて、大音量で音楽を聴いていたんだ。お釣りの落下音はそれに遮られて耳にしてない」


「なるほど。続きをどうぞ」


「で、慌てて自販機に戻ってお釣りを手に入れようとしたら、ちょうどこいつ……角谷だったな。こいつが水を買う場面に出くわしたんだ」


 憤激がぶり返したか、藪野先輩は辛らつな口調になった。


「角谷は取り出し口からペットボトルを掴むと、その場を去ろうとした。直後に俺がお釣り口に手を突っ込んだところ……」


 純架が引き取った。


「あるはずのお釣りがなかったわけですね」


「そうだ。200円引く130円で70円のお釣りが、綺麗さっぱり消えていたんだ」


 角谷先輩が語気を荒らげた。


「お前、ふざけるなよ。俺が取ったっていうのか」


 藪野先輩も応戦する。


「それ以外に何がある?」


 角谷先輩は面倒くさそうに眉根を寄せた。


「さっきも言ったがな、俺はお釣り口を触ってないぞ。100円を入れて100円のミネラルウォーターを買っただけだ。お釣りなんか出るはずもないだろう」


 藪野先輩が激高する。ほとんど叫ぶように喚いた。


「じゃあ俺の70円は煙となって消えたってのか!」


 再び緊迫する空気に、純架が両者の間に割って入る。


「お二人とも、落ち着いて。ここは論理的に考えましょう。……ときに、角谷先輩」


「何だ?」


「眼鏡は教室にでも置いてあるのですか?」


 角谷先輩はぎょっとした。


「何で俺が普段眼鏡をかけてると分かったんだ?」


 純架は澄ましている。


「さっきから目つきが悪そうなのは、眼鏡をかけておらず周囲がよく見えていないからですね? それにそのこめかみの下。つるがきつい眼鏡なのでしょう、かけた跡がくっきり残っています。授業など仕方ないときならいざ知らず、今の放課後のようにリラックスしたい場面では眼鏡を外す癖がおありなのですね」


 ずばりその通りだったらしく、角谷先輩はもごもごと口を動かすのみだった。薮田先輩が足を踏み鳴らす。


「そんなことはどうでもいいだろ。で、どうなんだ桐木。消えた70円の行方は分かったか?」


 純架は顎をつまんだ。


「そうですね、これは自販機を調べる必要がありそうですね。ところで角谷先輩が水を買ってからどれくらい時間が経過しましたか?」


 角谷先輩は腕時計を見た。


「だいたい10分ぐらいだ」


「ではもう他の方が自販機を利用したかもしれませんね。証拠は残ってないかな……でも一応見てみましょう。行きますよ」


 純架は先頭に立って曲がり角へ歩き出した。藪野先輩と角谷先輩は、両者ひと睨みしてから渋々ついていく。野次馬は話に興味を惹かれたものと惹かれなかったものに別れ、後者はさっさと自分の用を足しに行った。


 俺と日向は取り残された。


「やれやれ純架の奴、辰野さんのことすっかり忘れてるな。解くべき謎があれば、何もかもうっちゃってそっちに没頭してしまう。あいつの悪い癖だ。ごめんな、辰野さん」


 日向は苦笑した。


「でも、桐木さんらしい」


 すっかり泣き止み、元気を取り戻している。


「追いかけましょう、朱雀さん」

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