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117能面の男事件03

 菅野結城の人生は、常に三宮英二と共にあった。


 神殿のような巨大な邸宅を初めて視界に収めたのは、まだ幼稚園にも通っていない頃だった。それでも結城はそのときの情景をまざまざと記憶している。まだ元気だった母の幸恵(ゆきえ)、祖母の久美(くみ)に左右の手を繋がれて訪問すると、同年齢の男の子に対面させられた。子供でも分かる上等な身なりだ。


 綺麗だな、結城はそう思った。素朴な感嘆が口をついて出る。しかしその褒め言葉に、男の子はにこりともせず邪険にののしった。


「『綺麗だな』じゃない、『格好いい』だ」


 それが英二との出会いだった。彼の父親らしき偉丈夫(いじょうぶ)が苦笑する。つられるように、母や祖母、その他の召使いたちが笑い声を上げた。


 祖母がしゃがみこんで結城の顔を覗き込む。


「いいかい結城、お前はこの男の子――英二様に仕えるんですよ」


 それから英二と結城の主従関係が始まった。


 まずは飲食の用意や衣服の手配などから勉強していった。英二は当時からぶっきらぼうで、結城との上下関係をすんなり受け入れた。ただ何でも結城任せにするのではなく、自分でできることは自分でやることを好んだ。


 あるとき、結城は英二と共に雨上がりの庭を散歩していた。その際、濡れた地面に誤って転んでしまったのだ。お仕着せのメイド服が泥まみれになった。結城はどうしていいか分からず、ただメイド長に怒られることを想像して泣き出してしまった。


 すると英二は、何を思ったか――その場に自分も寝転がったのだ。当然英二の服も泥だらけとなった。英二は顔に土を付着させながら、珍しく楽しそうに笑ってみせた。


「俺はお前と一緒に相撲をとっていたんだ。いいな、メイド長にはそう言えよ」


 結城は涙をこぼしながら、あっけに取られて英二を見つめた。そのときの彼の笑顔を、結城は後々になっても思い出すことが出来る。もちろん二人とも怒られたのだけれど、結城は自分のご主人様である英二に、初めて親近感を抱いたのだった。


 年齢を重ねて小学生後半となった頃、結城は英二の緻密(ちみつ)な頭脳に舌を巻くようになった。何しろ学年トップの成績を連発。伸びない背丈とは裏腹に、テストの得点は急速に伸張(しんちょう)したのだ。


 その英二の専属メイドとして、まさか遅れを取るわけにはいかない。せめて同格になろうと、結城も必死に勉強に励んだ。運よく彼女にもその方面の才能があったらしく、英二の知的な質問にもどうにか答えられるようになった。英二は目覚(めざ)ましい結果を弾き出し続け、結城もそれに寄り添うように上位に君臨した。


 結城と英二は更に成長し、中学生になった。小学校同様、同じ学年、同じクラスである。前者はともかく、後者は三宮財閥が影で影響力を発揮したのだろう。真新しい制服に身を包み、二人はより一層勉学に励んだ。英二は友達を作るのが苦手らしく、もっぱら小遣い――普通の中学生の何百倍もある――をばらまいて、どうにか関係を作っていった。一方結城はしっかり者として人気になり、英二のメイドとしての本分を忘れない範囲で、多くの友人たちと付き合っていった。


「なあ、楽しいか?」


 ある朝、車に揺られて登校しながら、英二が結城に問いかけた。


「といいますと?」


「俺なんかのために尽くして、さ。お前は幸せなのか?」


 いきなりの質問だった。その割には真剣味が漂う。これは軽はずみな答えではいけないと、結城は真摯(しんし)に向き合った。よく考えて唇を動かす。


「はい、幸せですし楽しいです。英二様の幸福は私の幸福です。英二様と巡り会って、私は後悔したことがありません」


 英二は結城の目を見つめ、不意に()らした。


「そうか。じゃあいいんだ」


 ぶっきらぼうにそう言った。


 全てが順風満帆(じゅんぷうまんぱん)。結城は人生の絶頂にあったといっても過言ではないだろう。


 だがそれは唐突に終わりを告げる。結城の祖母・久美が他界したのだ。


「お婆ちゃん……!」


 顔に白い布がかけられたむくろを、すすり泣く女たちが囲んでいる。大腸癌だったらしい。結城は信じられぬ思いで、かつて祖母だった肉体にすがりついた。涙はあふれ、容易に止まらなかった。


 そのとき、結城の肩に手が置かれた。振り向くと、三宮家の当主、三宮剛が無念そうな顔で佇立(ちょりつ)していた。


「手は尽くした。安らかな死に顔だった。今回は気の毒なことになったな」


「当主様……!」


 結城は目元を拭いながら号泣した。


 その後、祖母は手厚く葬られ、列席者はここでも涙した。だが不幸はこれだけでは済まなかった。


 更に一年後、今度はまだ若い母・幸恵が亡くなったのだ。


 三宮邸のホールにある大階段を転げ落ち、頭部挫傷(ざしょう)急逝(きゅうせい)したという。不幸せの完全なる不意打ちに、結城は愕然(がくぜん)と膝を折った。慟哭(どうこく)は遺体との対面でも、その後の葬儀でも、止めようがなかった。この頃になると身長差がついていた英二は、背伸びして結城の背中を叩いて慰めた。


 菅野家の男性は代々短命である。結城の父も祖父も若くして亡くなっていた。結城は天涯孤独となったのだ。


 沈んだ気持ちを抱きながら、それでも結城は英二のメイドを貫いた。菅野家は三宮家に服従する伝統なのだ。それを自分の代でおろそかにすることはできなかった。


 やがて二人は別れることになる。英二は都内の難関私立高校にトップで合格し、そこに通い始めた。ただ空気が悪く、英二も当主・剛も不満だった。一方結城は様々な高校を転々とし、英二の通う高校としてふさわしいかどうか、「下見」に励んだのである。


 そうして英二は、結城の推薦した渋山台高校に転校してきた。主従は再び合わさり、仲良く高校生活を始めたのだった……。




 結城は憎悪の露見(ろけん)(おお)い隠そうとはしなかった。


「熊谷様はまず部下を使い、私に接触してきました。運転席の漆原さんです。彼は私に、祖母・菅野久美が大腸癌にもかかわらず、三宮家からろくな手当てを受けさせてもらえなかったことを、豊富な資料と共に教えてくださったのです」


 英二は軽く目を見開いた。


「何だと。どういうことだ」


「漆原さんは私に真実を告げました。当主様は祖母に、三宮家御用達(ごようたし)の一流病院施設を受診させず、もう用は済んだとばかり、田舎の小さな総合病院を強要したのです。また、祖母の癌を治せる特効薬を、日本で認可が下りておらず高額になることから、用意してくださいませんでした。そして私と母のメイド作業に差し障りが出ないよう、祖母が亡くなったことをぎりぎりまで秘匿(ひとく)さえしたのです。三宮家は祖母に対し、あれだけ全力で尽くしてきた祖母に対し、まるで家畜を扱うかのような(むご)い仕打ちを与えたのです」


 俺は口を利けなかった。英二は両目をけいけいと光らせている。


「父上がそんなことをしたというのか」


 結城は首肯(しゅこう)する。


「否定なさいますか? でも事実です。漆原さんの資料に虚偽や捏造(ねつぞう)は見出せませんでしたし、その後の私の調査でもおかしな点はありませんでしたから」


 俺はこの緊迫した状況に、(いちじる)しい(のど)の渇きを覚えた。結城が再び言葉を紡ぎ出す。


「そして母。母は屋敷の大階段で転落死しましたが、それは事故ではありませんでした」


 狂おしいほどの憎しみが端々(はしばし)に感じられる。


「こともあろうに当主・剛が、嫌がる母に無理矢理キスしようとした挙句、誤って落としてしまったのです」

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