116能面の男事件02
それから数日経った土曜の放課後。俺は女生徒との写真撮影に付き合っている純架を置いて、一人部室へと向かった。奈緒は友達の相談事で、1年1組の日向は新聞部の活動で、それぞれ遅れるとのことだった。
木造旧校舎の3階角部屋、元1年5組の教室が『探偵同好会』の根城だ。引き戸を開けると、英二と結城の主従コンビが椅子に座ってくつろいでいた。英二は爪を切っている。
「事件依頼がないと暇だな」
こちらを見ずに話しかけてきた。俺は「そうだな」と応じながら机に鞄を引っ掛ける。結城が身を起こした。
「朱雀さん、紅茶いりますか?」
「ああ、助かる」
彼女は微笑むと、ポットの方へ歩いていった。英二は爪切りを手に無心に作業を進めている。俺に話しかけてきた。
「結局『能面の男』は今日まで現れず、だ。あるいは見間違いだったのかも知れんな」
「そうだな。もう警戒を解いて大丈夫かもな」
「俺もそう思ったから、今日は黒服たちを減らしている。ボディーガードが大勢いれば安心だが、窮屈にも感じるからな。……それより、観たぞ『ターミネーター』」
純架がしきりに薦めていたDVDを、昨日英二がしぶしぶ借りたのだ。俺は身を乗り出した。
「どうだった?」
「面白かったな」
英二はゴミ箱を脇に押しやった。爪を切り終えたらしい。
「何十年も前の映画とは思えないぐらい、プロットが素晴らしかった。ただ……」
そのときだった。
乾いた破裂音が聞こえたのは。
「何だ?」
俺と英二が同時に叫ぶ。目を見合わせ「確かに聞いた」と確認しあった。
結城が常ならぬ警戒心を露わにする。
「今のは銃声です!」
俺は喉の渇きを覚えた。銃声? こんな真昼間から、こともあろうに学校で?
結城は緊張を隠しきれず、ご主人様に頭を下げた。
「英二様、急いで避難してください。危険です」
英二は眉間に皺を寄せた。
「まだ銃声と決まったわけじゃない。何で俺がただの破裂音に、尻尾を巻いて逃げなきゃいけないんだ」
「大事な御身ですから」
結城は頑なだ。
「あるいは『能面の男』が動き出したのかも知れません。ここは3階の角部屋、追い詰められたら逃げ場を失います。英二様の身に何かあれば私が処罰されます。どうか私めと共に黒服の車にお乗りください。それも早急に」
「やれやれ、仕方ないか」
英二は不承不承うなずいた。苛立ちも僅かにのぞく。
俺たちは部室を出ると、結城の先導のもと、廊下を進み階段を下りた。結城は通路の安全を確認し、同時にその体で主をかばいながら、時間をかけて校舎の外に出た。
「朱雀さんは狙われてはいません。どうぞ部室にお戻りください」
俺は笑う膝を叩いて笑顔を作った。
「そうはいくかよ。英二が狙われてるってのに、一人のこのこ帰るわけにはいかねえし」
「そうですか、仕方ありません」
校門脇に高級そうな黒塗りのベンツが停まっている。俺たちはその車内へ身を隠すように乗り込んだ。助手席に俺、後ろに英二と結城といった態勢だ。運転席の黒服は、俺らの乗車を確かめると、音も立てずに発進させた。
英二が黒服に質問する。
「お前は初めて見るな。名は?」
黒服は――30代半ばといったところか――低い声で答えた。
「漆原と申します。英二様の御身を運ぶ栄に初めて浴します。以後お見知りおきを」
何千万円もするような高級な車なのだろう。かなりのスピードなのに振動が少なく、乗り心地は天界の絨毯のようだった。英二がスモークで遮られた窓を見つめる。
「どこへ行く気だ?」
答えたのは結城だった。
「落ち着いてください。まずは安全な場所へ向かいます。『能面の男』が相手であることを念頭に置いてください」
俺は車が人気のない森林へ向かっていることに気がついた。
「まあ安全と言えば安全かな」
それからどれぐらい走っただろうか。
結城が深々と溜め息をついた。
「英二様。お話したいことがございます」
低い、氷点下の声だ。
「何だ」
結城の変貌に気づいた英二が短く返す。一変した空気をつかみ損ねていた。
「英二様……」
結城は再び、ぞっとするような声音で呼んだ。
「私たち菅野家は、三代に渡って三宮家に仕えてきました」
俺は助手席から背後を振り返った。結城はこちらにまるで注意を払わず、氷塊のような視線で主を突き刺している。
「何だ、藪から棒に。それがどうした?」
英二は動じることなく返した。対する結城の声が車内に反響する。
「祖母も母も、もちろん私も、誠心誠意三宮家の当主様やご家族に奉仕してまいりました。晴れの日も、雨の日も、自分の体調が悪かろうとも、心より尽くしてまいりました。しかしそれは屈辱の歴史。私たち菅野家は三宮家の下僕として、常にこうべを垂れ、卑屈に体を折り、奴隷として追従してきたのです」
英二は目をすがめた。
「話が見えないな。それが何だ。俺たちと菅野家の主従関係はごく自然なものだろう。そうでなければ40年以上も続かない」
「その尊大な態度が、菅野家を不幸に追い落としてきたのです」
結城は足元の鞄を開き、その中に手を突っ込んだ。
「英二様。いや、三宮英二」
結城が取り出したものは、一丁の拳銃だった。黒光りする悪魔の凶器。その銃口をご主人様であるはずの英二の頭部に突きつけた。俺はあっと叫んだ。
「す、菅野さん?」
「あなたは黙っていなさい」
今にも引き金を引きそうで、俺は押し黙った。
英二は不機嫌そうに彼女を睨みつける。突然のことに俺同様面食らったようだが、顔には出さない。
「何の真似だ」
結城は冷酷に突き放した。
「もう主と従者の関係は、今日限りで終わりです。三宮英二、あなたは私をずっとメイドとして扱ってきましたね。私も憤怒を押し殺し、マグマを胸底深く沈め、今までずっと耐えてきました。しかしそれもこれまで。今日、私は『能面の男』――熊谷様と手筈した通り、あなたを殺害します」
熊谷。それが『能面の男』の名前だというのか。いや、それよりも何だよこの状況。
「おいおい、何を言ってるんだ菅野さん。らしくないぜ。だって、だってさあ」
俺は感情のまま思いのたけをぶちまけた。
「今まで俺たち、仲良くやってきたじゃないか。菅野さんは英二のメイドとして、常に全力で英二を守ってきたじゃないか。俺も英二も知ってるぜ。英二を馬鹿にされると自分のことのように怒り、俺に張り手を食らわせたこともあったじゃないか。英二にほのかな恋心を抱いて、英二が辰野さんに近づくと露骨に不満顔を作っていたじゃないか」
駄目だ、感情が制御できない。今の現実と過去の思い出の整合性が取れないで、ただあふれる言葉を垂れ流すしかできない。
「皆でプールや海に遊びにいったじゃないか。学園祭じゃJKビジネスとかこき下ろされながら、一緒にリラクゼーションスペースを催したじゃないか。何で、何でこうなるんだよ。こうなっちまったんだよ」
英二が鋭く制した。
「黙れ、楼路。結城は本気だ」
俺は無視して叫ぶように頼んだ。
「思い直せ、菅野さん。今ならまだ間に合う」
結城は歯軋りした。だが拳銃を握り締める手は一向緩まない。
「お黙りなさい、朱雀さん。確かに私はメイドとして三宮英二にお仕えしてきました。それこそ全身全霊を込めて。でも、熊谷様に祖母と母の悲惨な死に様を知らされたとき、そんな自分が恥ずかしく、いたたまれなくなったのです」
英二の両目は燃えるようだ。二人の視線が火花を散らす。
「『能面の男』熊谷に何を言われたんだ?」
「一週間前のことでした」




