011折れたチョーク事件04
俺と純架は示し合わせた通り、その放課後、1年3組近くのトイレに潜んだ。廊下は帰宅や部活に向かう生徒たちでにぎわっていたが、それもやがてまばらとなった。20分後にはもうすっかりひと気がなくなる。
「僕が最後に見てきた限りでは、宮古先生が使った長くて白いチョークは折られていなかった。きっと犯人が現れ、犯行に及ぶと思う」
俺は鏡に映る自分を論評していた。剣山のように逆立つ黒髪。挑みかかる狼のようなギラギラした瞳。細くて短い眉、常に不平を抱えているかのような唇。やっぱりいまいちか。
「それにしても犯人の動機が分からんな。宮古先生に嫌がらせするためにチョークを折るなら、たとえば木曜日の1時間目は数学Aなんだから、水曜日の放課後か木曜日の早朝に折って、数学Aに直接影響を与えたほうが効率がいい。なぜ数学Aの前ではなく、後になって折っているんだ?」
純架は慎重だった。
「理由は何となく分かってる。ただ確証が持てないから言いたくないな」
「犯人の正体は?」
「それも予想はついてる。これもまだ口にしたくないね。赤っ恥をかく気はないよ」
「俺、一応『探偵同好会』の会員だぜ。それでも教えてくれないのか?」
「ことはデリケートだからね」
「ああ、そう」
俺たちはこっそり廊下をのぞき、誰も往来していないのを確認した。腕時計の針が時間を刻む音がやけに高くトイレ内に響き渡る。そう、俺たちは犯人が教室に現れ、犯行に及ぶのを待ち構えているのだ。
待機し始めて30分。俺は焦れた。
「今日はもう来ないんじゃないか?」
「しっ、声が大きい。足音を聞き逃さないよう、耳をそばだてるんだ」
「へいへい」
40分。50分……。もう張り込み開始から1時間になろうとしていた。俺は飽きて疲れて、さっさと帰りたかった。
そのときだった。
か細い、しかし確実な足音が廊下に響き出したのは。
「来たね」
純架がにやりと笑った。俺は緊張に背筋が伸びる思いで耳を澄ませた。教室の引き戸が開けられる音がすると、純架は俺の手首を掴んでトイレから出て、音を立てないよう注意を配りながら教室に向かった。片手でスマホのビデオ撮影を起動させている。
俺と純架は戸口まで辿り着くと、こっそり中を覗いた。斜陽に輝く室内に、俺は見覚えのある背中――憧れ、恋心と共に見つめていたうなじを見出した。彼女は黒板の粉受けから長いチョークを取り出すと、それを白くてコンパクトなプラスチック製と思しきチョーク入れに収めた。そして代わりに、折れた状態のチョークの破片二つを粉受けに置いた――
「そこまで!」
純架の唐突な怒声に、彼女――飯田奈緒は仰天した。持っていたチョーク入れを思わず取り落とす。中に収まっていた長いチョークが床に激突した拍子に割れ、破片と共に床を転がった。
「飯田さん……!」
俺は二の句が継げなかった。チョーク折りの犯人は、俺の想い人、飯田奈緒だったのだ。その事実をどうやって理解し、また納得すればいいのか、最良の解決方法はまるで見つけられなかった。
純架がスマホのカメラのレンズを奈緒に合わせている。
「この通り、撮影したから言い逃れはできないよ、飯田さん。残念だったね」
奈緒は驚愕が過ぎると、悄然としてうなだれた。
「そうね。逃れられないね」
声が湿っている……と思っていたら、
「う……うわああ……!」
奈緒はわっと泣き出した。大粒の涙が目頭と目尻から溢れ、頬を伝って床に落ちる。そのいくつかは折れたチョークの表面に命中した。奈緒はがっくりと両膝をつくと、床に這いつくばって号泣した。夕暮れの教室に、その慟哭は大きくこだまするのだった。
「……さ、もういいよね、飯田さん。全部話してくれないか」
奈緒の嗚咽はまだ続いていたが、だんだんそのボリュームは絞られてきていた。それでもなお純架の要請に応じられるレベルではない。純架は仕方なさそうに告げた。
「じゃ、僕から話そう。違っていたら教えてくれたまえ。……飯田さんは、宮古先生が好きだったんだね」
俺は純架の横顔を呆然と見た。奈緒は宮古先生が好き……。明かされた事実に胸が鋭く痛む。純架は気づかないで続けた。
「そして、大好きな宮古先生が数学Aの時間にたっぷり使ったチョークが、どうしても欲しくなった。だから最初は遊び心で、先々週の火曜日の放課後だろう、最初の盗みを行なった。長い、宮古先生の使ったチョークを手にして、飯田さんは満足した。誰もそれに気づくものはいなかった」
純架は未だに泣き続ける奈緒を容赦なく断罪する。
「最初は一本でやめるつもりだった窃盗だが、飯田さんは次第に我慢できなくなった。かといって学校の備品を盗むのは気まずい。そこで学校で使用されているのと同じチョークを自分で箱買いした。そして今そこにあるチョーク入れも購入し、折ったチョークを収めて登校。先々週の木曜日、体育の時間で皆がいなくなると、こっそり宮古先生のチョークを奪い、代わりに自分の持参した折れたチョークを置いたんだ」
俺は驚きを殺せなかった。
「宮古先生のチョークを折っていたんじゃなく、自分が折った別のチョークをそれと交換していたってのか?」
純架はうなずいた。
「この前折られたチョークは折れた断面がいまいち合わさらなかった。黒板付近で折ったなら、耐え切れず分離した破片が床に散っていたはずだ。だがそれは発見できなかった。そしてチョークの皮膜の欠損もなかった。そこから僕は、既にあるチョークを教室で折ったのではなく、別の新品をどこか違う場所で折って運んできたんだとにらんだ。そうだね、飯田さん」
奈緒はもう泣きやんでいた。ただまだいつもの元気はなく、純架の問いにうなずいてうなだれるばかりだ。純架はまた口を開いた。
「ここからは僕の想像も入るがね。君はチョークを折る、という行為で宮古先生を故意に怒らせた。それが君にとっては快感だったんだ。好きな人の感情を揺さぶることが出来て、飯田さん、君は非常に満足した。まるで宮古先生を独り占めしたかのような錯覚に浸れたんだ。だから君は自分のチョークを折り、それを学校のものと取り替え続けた……」
「ごめんなさい……」
奈緒は虫のようなか弱い声で謝罪した。
「桐木君の言う通りよ。そう、私は宮古先生が好き。誰よりも大好き。家に持ち帰った4本のチョークは私の宝物よ。本当はいけないことだと分かっていたけれど、自分で自分に歯止めがかけられなかった。今日も本当は危険だと思ったけど、我慢できなかったの」
純架はふっと息を吐いた。
「犯人は部活動をしていない帰宅部の誰かだと思っていたよ。火曜日の放課後もしくは水曜日の早朝に時間がある人だからね。そして飯田さん、君は数学Aの授業中、宮古先生に熱い視線を送っていた、発情した子犬のように。あれで先生に恋してないなんていったら嘘さ」
前に聞いたのと似たような台詞だった。純架は捨て目が利くのだ。
「だから僕は高い確率で君が犯人だと思っていたよ。まあ本当は違っていてほしかったけどね。それにしても宮古先生が好きだっていうなら、素直に愛の告白をしていれば良かったのに。何でそれがチョークを盗むという犯罪行為にねじ曲がるのか、僕にはまるで理解できないよ」
胸に手を当てた。
「以上がこの事件の全貌さ」
厳しい表情に戻る。
「さて、どうする? 宮古先生に全てを洗いざらいぶちまけるかい? そうして被害者の先生にたっぷり叱られることが、今の飯田さんには必要だと思うけど」
「見逃して」
奈緒は面を上げた。両目尻が赤い。
「間違ったことをした、やってはいけないことをやった、そのことはよく分かってる。申し訳ない気持ちで一杯だし、本当に後悔してる。でも、それでも宮古先生に嫌われたくない。私、先生を愛してるもの。私の隠れた性癖を知られたら、もう生きていけない」
また涙があふれてきた。
「お願い、二人とも。どうか宮古先生には黙っていて。何でもするから……」
俺は胸が苦しくて何も言えなかった。恋を表明できない彼女の気持ちが痛いほどよく分かったからだ。俺も、彼女と同じだ。
純架が険しい声を出した。
「本当に何でもする?」
「うん」
「本当の本当に?」
「うん。何でもする」
「絶対だね」
「もちろんよ」
おいおい純架、奈緒に何をやらせる気だよ。
純架が人差し指を立てた。
「じゃあ遠慮なく僕の言うことを聞いてもらおう。飯田さん……」
「何?」
「『探偵同好会』の秘書を務めてくれ」
俺と奈緒は純架のいたずらっぽい笑顔を穴が開くほど見つめた。
「おい純架、冗談はよせ」
「冗談なんかじゃないよ。僕は本気だ。宮古先生に黙っている代わりに、飯田さんには仲間になってほしいんだ。ただでさえ僕と楼路君の二人で少ないんだからね。それに社交的で誰とでも打ち解けられる飯田さんは、『探偵同好会』の情報収集活動においても大いに役立ってくれるはずだよ。……どうだい、飯田さん」
「入る」
奈緒は意外にもあっさり承諾した。
「それで告げ口をふさいでくれるなら、喜んで『探偵同好会』に入会する。どんな会なのか知らないけど……」
そんなに宮古先生が好きなのか。俺はなんとも言えなかった。純架は『探偵同好会』について簡潔に説明した。
「会長の僕が脳で、助手の楼路君が体で、疑問・難問・オブジェクションを解決していく同好会だよ。まあ、今やってるようなことをする会さ」
さっぱり伝わらないだろう。
純架は手を差し伸べた。
「さ、立って」
奈緒はその掌を凝視する。程なく右手を重ねた。
「これで決まりだね。ようこそ、『探偵同好会』へ!」
純架は彼女を引っ張り上げた。
これで『探偵同好会』は3名となった。最初は戸惑っていた俺も、恋する相手の奈緒が入会してくれたわけで、嬉しくないはずがなかった。
俺はにやけながら、これからの素晴らしい活動に思いを馳せるのだった。




