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薔薇の庭  作者: 咲良
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 ローザに連れられてやって来たのは、村外れに建てられた煉瓦造りの小さな家だった。窓辺に飾られた小さな花や、使い古されて馴染んだ木製の家具、手作りのカーテンにテーブルクロス。室内はどこもかしこも温かな家庭のにおいで溢れている。人の気配はない。

「…………失礼だが、ご家族は?」

「父さんは母さんが亡くなるずっと前に死にました。兄弟はいません。いつもはおばあさんと暮らしてるけど、今の時間は働きに出てるから」

 ローザは前を向いたまま、どこか冷ややかな声で答えた。彼女はここに辿り着くまで、ガリカと一言も口を利こうとしなかった。どうやら嫌われているらしいということは察せられるが、その原因が全く思い当たらない。ローザとは勿論初対面である。気づかないうちに何か気に障ることをしてしまったのだろうか。ガリカは首を傾げながら、さりげなく辺りの様子を見渡してみる。ローザの言う『父さん』を示す肖像画などは特に見当たらず、ガリカはほっと胸をなで下ろした。愛しいコーネリアの心を手に入れた男の顔を前にして、さすがに平気でいられる自信はなかった。

「少し待っていてください」

 ガリカを居間のソファに座らせるなり、ローザはワンピースの裾をひらりと翻して家の奥へと姿を消した。その後ろ姿を見つめていると、まるでコーネリアが生まれ変わったのではないかと錯覚し、そうであったら良いのにと、心のどこかで強く願っている自分に気づいて首を振った。

 ――――あの子は違う。コーネリアじゃない。

 墓場で言っていた、見せたい物とは一体何だろうか。しばらく待っていると、ローザはすぐに戻ってきた。その華奢な腕の中には、古ぼけた一冊の分厚い本が抱えられていた。

「どうぞ」

「これは………?」

 差し出されたそれを受け取ると、ずしりとした重みが手に伝わる。

「母さんが昔、貴方のお屋敷で働いていた時に書いていた日記です。遺品を整理している時に見つけました。どうぞ、読んでください」

「…………私が読んでも構わないのか?」

 家族でもない人間が、故人の私的な領域を覗くのはいかがなものだろうか。だが、ローザは真剣な顔でこくりと頷いて、

「貴方だから、読んでもらいたいんです」

 と、戸惑うガリカを強く促した。ガリカは少し躊躇ってから、ゆっくりと表紙を開いた。日に焼けて黄ばんだ頁に綴られた、コーネリアらしい丁寧な美しい筆跡を静かに目で辿っていく。


『××年×月×日

天使のように美しい男の子が、薔薇の庭で泣いていた。

まだ一度もお会いした事はないけれど、すぐにご子息のガリカ様だと分かった。

薔薇の棘で手の平にお怪我をなさったらしい。

手当をしてさしあげると、不思議そうなお顔でわたしを見上げていらっしゃった。

とても、可愛らしいお方だ。』


 一頁目。突然現れた自分の名前にどきりとして、思わずあっと声を上げそうになった。向かいの席に腰を下ろしたローザが、ガリカの一挙一動をじっと見つめているのが分かる。ガリカは逸る気持ちを抑えて、次々と頁を捲っていった。

 ――――しかし。

 捲っても。捲っても。そこに書かれてあったのは。

「嘘だ………そんな、まさか…………ありえない!」

 ガリカは勢いよく顔を上げ、ローザの瞳を縋るように見つめた。だが、彼女は青ざめたガリカを静かに見返し、長い黒髪を揺らしてゆっくり首を振った。そして、真実から目を背けようとするガリカを、ローザは決定的な言葉で容赦なく追いつめた。

「嘘ではありません。その日記に書かれてあるのは全て…………母さんから、貴方への想いです」

 くらりと、目眩がした。


『××年×月×日

今朝、いつものようにガリカ様の髪を結んでさしあげた。

あいかわらず美しい金の髪をなさっておられて、許されるのならば、いつまでも触れていたいと思う。

今日のリボンの色をお尋ねすると、ガリカ様はなぜかわたしに何色が好きかとお聞きになられたので、少し考えてから白とお答えすると、

ガリカ様はにこりとお笑いになって、その日のリボンは白をお選びになった。

………嬉しかった。』


『××年×月×日

ガリカ様がご結婚なさるらしい。

午後のお茶をお持ちした時にガリカ様ご本人からお聞きしたから、間違いはない。

悲しいけれど、わたしにはどうしようもない事だ。

なぜかガリカ様はあまり乗り気ではないご様子で、なんと戯れにわたしなどが良いと仰って、この身を抱き寄せられた。

冗談だと分かってはいても、夢を見ているようで、生きた心地がしなかった。』


『××年×月×日

ガリカ様が奥方様を迎えられた。

とてもお優しくお綺麗な方で、ガリカ様とご一緒に並んだお姿は、まるで一枚の絵画を見ているようだった。

きっとすぐにお二人によく似た愛らしいお子様がお生まれになるだろう。

少しだけ泣いてしまったけれど………もう大丈夫。』


『××年×月×日

父さんから手紙が届いた。

病気で倒れたと書いてあった。

わたしに帰ってきて欲しいとも。

ガリカ様のお顔が浮かんだ。

決断の時が、迫っている。』


『××年×月×日

夜明け前に目が覚めた。

気がつくと足は薔薇のお庭に向かっていた。

驚く事に、お庭には先客があり、それはなんとガリカ様だった。

しかも、薔薇の棘で手にお怪我をなさっていて、まるで初めてお会いした時のようだと思った。

あの時と同じように手当をしてさしあげると、ガリカ様は優しく微笑んで、ありがとうと仰った。

やはり、伝える事はできなかった。

それで、良い。』


『××年×月×日

今日、長い間お世話になったお屋敷を出て行く。

日記をつけるのも、これでお終いになる。

だから、最後にひとつだけ。


ガリカ様、お慕い申しておりました。


この想いを告げることはない。

永遠に。』


「――――っ」

 気がつけば涙が溢れていた。

 薔薇の庭で初めて出会ったあの日、コーネリアは幼いガリカに恋をした。それから毎日、日記の中にだけ恋心を打ち明け続けていたのだ。相手の心の在処に気づく事なく、伝えられない密かな気持ちを見つめる視線だけに乗せ、そして最後まで決してそれを言葉にしなかった。ガリカと同じように。

「あ、あ、ぁ…………」

 片手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣き出したガリカを、ローザは哀れむように見つめた。

「…………母さんは病気になって死ぬまで何も言いませんでした。父さんも、母さんが亡くなる前に死んだから、たぶん何も知りません。この日記は、本当は誰にも見せずに燃やしてしまうべきだったんでしょう。でも、母さんは時々寂しそうにどこか遠くを見つめてる事があったんです。それを思い出したら、わたし、何だか可哀想で堪らなくなって…………だから、もしも貴方に会う事があったら、何も言わずに死んだ母さんのかわりに、恨み言の一つでも言ってやろうと思ってたんです。でも…………止めました。貴方は、母さんのために泣いてくれたから」

 コーネリアによく似た白い指先が、涙に濡れたガリカの頬を優しく拭い、乱れた髪をそっと撫でる。それはまるで、薔薇の庭で一人ぼっちで泣いていたガリカを、コーネリアが慰めてくれた時と同じように。

 嗚咽の合間に、ガリカは誰へともなくぽつりと呟いた。

「…………私は、コーネリアを愛していた」

 今まで一度たりとも声に出した事のない告白。それを伝えるべき相手はもうこの世に存在しない。かわりに、彼女によく似た少女がこくりと頷いた。

「愛して、いたんだ」

「はい」

「誰よりも、ずっと…………」

「…………はい」

 ガリカの血を吐くような告白を聞きながら、ローザはコーネリアにそっくりな顔を痛ましげに歪ませる。

 ――――違う………!

 そんな顔をさせたいわけではないのに。

 ガリカは懐からある物を取り出し、ローザの手にそっと握らせた。コーネリアが好きだと言った白色のリボン。いつか彼女に贈ろうと取り寄せたきり、渡す事ができないまま何年もずっと引き出しの奥に眠っていた物だ。もう二度と、これが彼女の美しい黒髪を飾る日は来ないけれど。

「君に、差し上げよう」

「でも、これは母さんの…………」

 躊躇うローザの手を押さえ、ガリカは小さく首を振った。

「君に貰って欲しいんだ。きっと、コーネリアも喜んでくれるだろう。そのかわり、一つだけ頼みがあるんだ。一度だけで良い…………どうか、そのように悲しげな顔はしないで、私のために笑ってもらえないだろうか………?」

 ローザは驚いたように目を瞠り、それからゆっくりと、強ばっていた表情を笑みの形へと変化させた。やがて、ふわりと花が咲くように現れた優しい微笑みは、やはりコーネリアそのもので。けれども、決して彼女ではない。

 ――――分かっている。

 それでも、今だけは………。


 もしもこの身が滅び、魂となって再び彼女とめぐりあうことができたなら。

 そのときは今度こそ、何度でも繰り返し伝えよう。

 愛している。

 愛している。

 愛している。

 愛して、いる。

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