14 完全勝利タクティクス初級編12
クライアントを招いてのビッグイベントも、ようやく終わりを告げようとしています。
柿浦学習会の訪問が最後でした。
眼鏡の淵に指を添え、厳しい表情で舐めるように社内を見回していた城之内さんでしたが、帰り際、丁寧に一礼し、「足立さん。本当に素晴らしい会社ですね。御社のご提案ぜひ前抜きに検討するように、社に強くプッシュしておきます」とおっしゃってくれました。
いつも口を開けば、あいつが悪いこいつが悪い自分以外のすべてが悪いと言っていた社員は、すべてのお客様を社の前までお見送りをし、姿が消えるまで深々と頭を下げました。
悪口を言うなと徹底しておいたので、否定的な言葉は一切でなかったように思います。
すべてのお客様が帰られると、社員一同はプハーと大きく息を吐き、口々に「俺、死ぬかと思った」「呼吸を止めていたぜ」と言っています。
悪口を言わなかったら死ぬのですか、あなた達は?
萩原部長は手を叩いて、皆の注目を集めました。
「手ごたえは上々だったな。それにしても、みんな良くやった。それに……」
部長は私に視線を向けました。
どうせまた、いつもの嫌味を言うのでしょう。
もう慣れっこです。
それにいずれあなたを地獄に叩き落とします。
それまで好きなだけ言ってください。
「……足立……」
はいはい。
「お前、たいしたもんだな」
?
「正直、お前がいなかったら、ここまでの成果は出なかったと思う。それに……。なんか、会社全体に勢いがでてきて、社風も良くなってきた。すべてお前の取り組みのお陰だと思う。ありがとう」
そこまで言うと、あの悪魔のような部長は私に頭をさげたのです。
やめてください。
あなたは悪でいてください。
部長はみんなに向かって話を続けます。
「みんな、今日はこの後、打ち上げをしたいんだが、どうかな?」
「部長のおごり?」
「あぁ、もちろんだ」
「なら行く!」「飲むぞ」
部長は私の方に視線を向けてきました。
「足立も良かったら……」
行く訳ないでしょ!
「すいません。先約がありますので……」
「仕事以外の私用か?」
私用があると言うといつもぶちキレる部長。
どうぞ好きなだけキレてください。
だから私は、「はい」と頷きました。
「そうか……。残念だ。今度、またお前の空いている日に誘ってもいいか? 今日の主役をねぎらいたいのだ」
返答に困りましたが「日程があいましたら」と短く答えました。
複雑な心境に駆られましたが、本当に今日は先約があるのです。
会社を出ると、タクシーを呼び止め、約束していたレストランに向かいました。
駅の近くにある豪華な三ツ星レストランです。
値段は高めですが、いつも人でにぎわっており、予約しないと入れない人気店です。
田中さんに「どうしても今日、君に話したいことがあるから時間を取って貰えないだろうか。とても大切な話なんだ……」と電話で念を押されました。
どういう訳か、いくら内容を聞いても教えてくれませんでした。
大切な話ってなんだろう?
もしかして……
私の想像は、どんどん膨らんでしまいます。
お店に入ると、シックな音楽で心が和みます。
すぐに田中さんが私を見つけ、手を振ってくれました。
いつものラフな格好ではありません。ビシッと決めたスーツ姿で、胸のポケットには三角に折られた白いハンカチが入っています。髪も綺麗にセットされています。
そんな彼の姿を見て、思わずドキッとしました。
期待のボルテージは最高に高まっています。
テーブルに座ると、蝶ネクタイをしたウェイターが注文を聞いてきます。
田中さんは「お祝いに飲む?」
お言葉に甘えて、ちょっと高価な赤ワインを頼んでしまいました。
グラスを鳴らし乾杯をします。
「お疲れ。ミッションはどうだった?」
「田中さんのサポートでうまくいきました。本当にありがとうございます」
「今、会社はどんな感じだい?」
「えーと、なんか今日、打ち上げに行ったみたいで、私も誘われましたがもちろん断りましたよ」
「あ、それは悪いことをした。今からでも間に合うなら、合流したら……」
「何を言っているのですか! 会社なんてどうでもいいです。田中さんのお誘いの方が、何百倍の大切です」
ちょっとムキになってしまいましたが、田中さんは照れくさそうに笑っています。
彼の笑顔を見るとホッとします。
嫌なことをすべて忘れられます。
だから彼の話をすごく楽しみにしています。
本題を切り出してくれるのを、今か、今かと心待ちにしています。
「実は、君に話しておかなくてはならないことがあるんだ」
キタッ!
「……あの……だな……」
田中さんは言いにくそうに、目を閉じ、ハンカチで額を抑え、少し俯きました。
緊張をしているのでしょうか。
体育会系のおおらかな男性だけに、そのギャップが素敵です。
田中さん。大丈夫だよ。
あなたのペースで話して。
私はあなたの話を聞きたいから。
田中さんは意を決しのでしょうか、大きく目を見開き、私の目を見ました。
真剣なまなざしで、覗き込むように私を見つめています。
顔が熱い。
全身も熱い。
私、今、どんな表情をしているのでしょうか。
変な顔をしていたらどうしよう。
化粧は崩れていないだろうか。
少し笑った方が、田中さんは話しやすいかな。
でもここまで来て、演技なんてできない。
彼から視線をそらさないようにするだけで、精一杯でした。
彼はゆっくりと口を開きました。
私の全神経は、彼の唇の動きに集中しています。
呼吸なんてできません。
私の心臓は、ちゃんと動いているのだろうか。
時すら止まって感じます。
「足立さん……」
「は、は、はははい」
「あのね……」
「は、はい」
「復讐はやめよう」
一瞬、彼がなんて言っているのか、私には理解できませんでした。
「今、なんておっしゃったのですか?」
「復讐なんて馬鹿げている。これからの君の人生が悲しいことになる」
え?
何を言っているの?
「田中さんは私の気持ちを理解してくれてたんじゃなんですか? 私、いつも辛い思いをして、バカにされて、恥ずかしい思いまでして……だから、奴らを倒す為だけに自分を殺し、変わる決意をした。奴らを倒す為なら、なんだってやってやる。私には復讐しかない。それを知りながら、あなたは何を……」
「今日、イベントに成功してどうだった? みんな君を認めたんじゃないかな。君を祝宴に誘ってきたのがその証拠だと思うよ」
「田中さん……。あなたは最初から、こうなることを知っていた。こうなるように仕向けていた。それは私に人の道とかいう、くだらないことを諭すために……。そうなの?」
「くだらなくはないと思うけど、……そうさ。
憎しみからは何も生まれない。君が一生懸命頑張ったから、会社の人たちはそれに応えようとしてくれたんだ。時間はかかると思うけど、どんなに嫌な人間であろうとも、こちらが変われば必ずそれは響く。君が彼らに良いことをし続ければ、必ずいつか分かってもらえる。それが結果、君を幸福へと導くはずだ。俺は君に幸せになってもらいたい。やり方は卑怯だったかもしれない。だけど」
私は力任せにテーブルを叩いた。
「もういい! そんな綺麗ごと、聞きたくない。つまりあなたは、私の復讐には興味なかった。私の気持ちなんて、全然分かっていなかった」
「憎いのは今だけだよ。時間が解決してくれる。だから復讐なんて寂しいことはやめよう」
寂しい?
私が?
そうよ。
私は寂しい女。
奴らを血祭りにあげて、それを肴に楽しく嘲笑うのよ。
それが私。
私は悪。
テーブルに1万円を置いた。
「ごめんなさい。私……帰ります」
「え、ちょっと待って! 足立さんは人の不幸を喜ぶ人じゃないはずだ!」
あなたに私の何が分かるの?
逃げるようにレストランを出ました。
田中さんが追ってくます。
急いでタクシーに呼び止め、乗り込むと「すぐに出て頂戴」と告げます。
振り返るのが怖かった。
振り返れば、田中さんがいて、きっと彼の笑顔に魅了され、彼に諭され、私は私じゃなくなってしまう。
涙が止まらなかった。
タクシーを降り、賑やかな繁華街を歩きました。
まだ私、泣いていたのかもしれません。
視界がぼやけているのです。
しばらく歩くと、道端にあの易者さんがいました。
どういう訳か、易者さんだけはしっかりと視界に映りこんでくるのです。
まるでフォーカスが合ったレンズのように。
「伊藤さん。さすがね。あなたの占い通り進んでいるわ」
「わたくしは占い師ではございません。的中師です」
「相変わらずね。あなたと会う日は、いつも心に雨が降っています」
「それはただの偶然。心という領域には風は吹きますし、嵐だって起きます。それを冷たく感じるのは、あなたが心に傘をささないからです」
「面白いことを言うのね。どうやれば心の中で傘なんてさせるのかしら?」
「逆に何故、傘をささないのです? きっと今のあなたは、ずぶ濡れになりたいだけ。わたくしが言えるのは、くれぐれも風邪をひかないよう、お気をつけくださいとだけ。
さて、如何致しましょうか? 悪になる決意ができたのなら、あなたに次なるステップをお教えしましょう」
「……きっと、田中さんは止めるでしょうね」
「さぁ、どうでしょうか? ただ、あなたの心情はよく分かります。田中氏に止めて欲しいのでしょう?」
彼とは生き方がまるで違う。
彼は硬派で純粋で真面目で正しく、そして強い。
私は心の弱い悪。
これ以上、一緒に歩めない……。
伊藤さんは眼鏡の中央に指を起き、小さく呟きました。
「手に入らないのなら、一層のこと壊してしまえばいいのでは?」
壊す?
「――そう、彼から正義というしがらみを破壊し、あなたと同じ世界まで堕としてしまえばいい。さすれば、共に同じ道を歩めます」




