第12話
家に着いたのは時刻が六時近くになっていた。孝介は小さくため息を吐いて、チェックの入った上着を脱いでハンガーにかけるとクローゼットの中にしまった
それから自分の体臭を気にするように、周りを嗅いでみる。ホテルを出る前にもシャワーを浴びず、佐々木博也と会い、そのままずっと事務所で報告書を書いていた
シャワーを浴びる時間すらなかったのだ。ホテルを出るときに、以前陽子からもらったBVLGARIのコロンをつけていったから匂いはなんとかごまかしていた
まだ微かにコロンの香りがするが、少し汗臭い自分に気がついた。彼女との行為をする前にシャワーを浴びてから何もしてないのだから当然と言えば当然だ
シャワーを浴びておこう。孝介はそう思い立って、浴室に向かうことにした
約半日振りにシャワーを浴びて、孝介はさっぱりと爽快な気分に浸っていた。水気というのは人に爽快感を与えるものかもしれない
タオルで髪の毛を乾かしながら、部屋に落ちている雑誌などを拾ってそれらを積んで片しておく。これらの作業を行いながら、孝介はやたら時間を気にしていた
これから人に会う、それはこの孝介宅に友人がやってくるということを意味する
そいつがもう間もなく、予定通りではそろそろのはずなのである。今の内に片付けられるところだけ片付けておこう
それにこれから来るやつはそんなに気を遣うようなやつじゃない。むしろ気を遣うようなら孝介はそんな人間を家に招かない
最も今回はあちらの方が連絡してきたのだけど……
孝介は部屋を片している途中にふと今日のことが頭に浮かんだ
佐々木博也の件については、自分と重ねてしまうとこがあるせいか家に帰るまでの道中も思い出していた
拓郎が感じ取るように、佐々木博也の現状はまさに孝介そのものであった
夢を捨てきれず、けれども追い切れず、挫折を味わい……それでも立ち上がろうと足掻いて見せる
才無き人間の惨めな抵抗……そしてその結果を表しているのが佐々木博也……そんな彼と重ねてしまう自分……
つまり自分もそういう部類の人間であったということだ……
分かってはいた。それを認めて、素直に受け入れようと思った。だが、孝介にも自尊心はある
それでもどこか人とは違うのだと思っていたかった。人とは違うのだ自分は、と……
しかし自分はそういう人間の一部でしか過ぎない。例えば世間に動かされてる歯車のように、孝介も一定のリズムで動かされている一部の部品の一つに過ぎなかったのかもしれない
止めよう……そういうことを考える必要は……もうないのだ。既に自分は夢を捨てている。そして新しい道を切り拓こうと考えて、現状拓郎の下にいるのだ
答えならゆっくり導き出せばいい……
『お兄ちゃん』
ドクンと一つ、心臓が高鳴った。そのときだった
インターホンが鳴り、孝介はびくっと体を寄せた。止まっていた手の動きが元に戻って、ドアの方を見る
そして時間を見た。そろそろ来るだろうと思っていた
孝介はゆっくりと立ち上がって、ドアの方へと歩き出した。そしてドアを開けると、そこには見慣れた顔が立っていた
「よう。来たぞ」
「あぁ。いらっしゃい」
真田和寿は軽い声で、おじゃしますと言うと玄関の中に入った。そして孝介はドアを閉めると、カズを部屋の中へと入れた
「久しぶりだな。元気だったか?」
孝介はそう言いながら、せっせと部屋を再び片し始める。最近あまりこの家に帰っておらず、事務所の方で寝泊まりする日々が続いたから、片づいてなかったのだ
「悪いな。全然片づいてなくって」
「いや、そんなに気遣うなよ。でも珍しいな。お前が散らかしてるなんて」
「最近ろくに帰ってなかったんだ」
「探偵の方か?忙しいんだな」
「そこそこな。適当に座ってくれよ。今卓袱台出すから」
「あ、俺やるよ。あと、ほら買って来たぜ?」
と言って、カズは孝介に手に持っている袋の中身を見せた。高級感溢れる日本製の酒だった。孝介は丁寧にそれを受け取り、どういうものか見てみた
「……蒸留酒か」
「おう。結構値張ったぜ?」
「あぁ。美味そうだ。早くありつきたいな」
「最近暑くなってきたしなァ。ちょっと蒸してるな、この部屋。窓開けていいか?」
「あぁ。そうしてくれ」
カズは孝介にそう言われると、窓の施錠を開けてゆっくりと開いた。心地よい新鮮な風が入り込み、水気を帯びている孝介に涼しさを齎した
まだまだエアコンは必要ないだろう
「シャワー浴びてたんだな」
「ん?あぁ。さっき帰ってきたばっかなんだ。報告書を書くのに時間がかかってさ」
孝介はそう言いながら、コップを二個、台所からとって冷蔵庫の氷を入れる。そしてその内の一つをカズに手渡した
「探偵業、頑張ってるんだな」
「まァな。叔父さんにもお世話になってるから。その分しっかり働こうと思っててな……当然だ」
「ふぅ〜ん……そっか」
「あ、そうだ。寿司でもとるか」
孝介がそう言うと、カズが少し含み笑いを浮かべて遠慮がちに言った
「え?いいよ。悪いってそんなの」
「構うなよ。せっかく久しぶりに会ったんだから」
孝介はそう言いながら、付近にある寿司屋の広告を手に持ち、電話機の方に手を伸ばした




