第九十八訓 公共の場で電話をする時は声を抑えましょう
最初は二の足を踏んでいた「誕生日会をやるから帰って来て」という母さんからの頼みを、「ミクもお祝いに来てくれる」という一言で即了承した俺。
電話をかけてきた用はそれで終わる……はずだったのだが、母さんはすんなり電話を切ってはくれなかった。
そこから、自分と父さんの近況についての話が始まり、それから一か月前くらいに買った家電の使い方が分からなくて困っている……という話にスライドし、更にそこから、なぜか俺に運転免許の取得を勧めてきた。
俺は内心でウンザリしながら、適当に相槌を打ち、何とか元の誕生日会の件に話を戻そうとしたのだが……、
「うん……うん、分かった。じゃあ、昼前にそっちに行けばいいんだね? うん、了解。……いや、そんな事、言われなくても分かってるって。どんだけ信用無えんだよ、まったく。……いや、だから、タイマー設定が上手くいかないんだろ? それはさっきも聞いたって。……あーはいはい、分かった分かった! 明後日行った時に、ついでに見てやるから! はいはいはい、分かったからもう切るよ! じゃあねっ!」
と、再び脱線して無限ループし始めた母さんに、これ以上の対話は難しいと見切りをつけ、話を半ば強引に打ち切って液晶画面に表示された『切断』マークをスワイプした俺は、やれやれと大きな溜息を吐いた。
通話時間の表示から見ると、もう三十分近くも通話していたらしい。おかげで、あんなに美味しそうな湯気を上げていたトンカツは、すっかり冷めてしまっている。
それを見た俺は、もう一度深いため息を吐き、トンカツを一切れ頬張った。
……うん、美味い。冷めても美味いんだけど……やっぱり、熱々じゃなくなってしまっている上に、揚げたてだった頃にはサクサクしていたはずのトンカツの衣がすっかり湿気ってしまっていて、だいぶ風味が損なわれてしまっている……。
うぅ……せっかく奮発したトンカツ定食六百五十円が……。
「はぁ……もう一回レンチンしたら、またサクサクになるか――」
「――本郷氏、明後日誕生日なのかい?」
「うわぁッ!」
何とか元の熱々さとサクサクさを取り戻してほしいと、冷めたトンカツの蘇生案に思いを巡らせていた俺は、不意にかけられた声に驚き、素っ頓狂な悲鳴を上げる。
そして、声が聞こえてきた方に目を向けると――、いつの間に隣に座っていた小太りの男が、“にちゃあ”という擬音が聞こえてきそうな気持ちの悪い薄笑みを浮かべていた。
彼の面を見た俺は、思わず眉を顰めながら、溜息混じりに声をかける。
「……何だ、一文字か。いつからそこに居た? そして、何で当然のように俺の隣に座ってんだよ、お前」
「“いつ”に関しては、大体十分くらい前かな。一応、挨拶もしたよ。君は電話に夢中で気付かなかったみたいだけど」
そう答えた一文字は、すくったカレーを載せたスプーンで周りを指さす。
「それと――“何で”の方に関しては、ご覧の通り、『他に空いている席が無かった』が答えだね」
「……なるほど」
「君がご希望なら、『親友である君の隣に座りたかった』に言い変えてもいいけど。デュフフ」
「……いえ、ノーセンキューです」
俺は、いかにもオタクくさい笑い声を上げる一文字に冷たく言い放つと、プイッと正面を向いて、温くなった味噌汁を口に含んだ。
「ねえねえ、本郷氏」
そんなつれない態度をとったにもかかわらず、一文字には全く通じていないのか、彼は馴れ馴れしい態度で俺に話しかけてくる。
「さっきの電話が耳に入ったんだけどさ。君、明後日が誕生日なのかい?」
「……盗み聞きすんなよ」
「あんなに大きな声じゃ、盗み聞きするどころか、耳を塞いでいても筒抜けだったよ」
「……」
一文字の返事にぐうの音も出ない俺は、ぶすっとした顔をして白飯を頬張り、それからトンカツを一切れ摘み上げながら尋ねた。
「……俺の誕生日が明後日だったら何だって言うんだよ? そんなん、お前には関係ないじゃん」
「いやいや! 関係大アリさ! 何たって、親友の記念日って事だからね!」
一文字は、興奮気味に目を大きく見開きながら激しくかぶりを振って力説する。
そんな彼の事を冷ややかに見ながら、俺は感情の籠もっていない声で答えた。
「へぇ、そうなんだ。じゃあ、その“親友”とやらに『おめでとう』って伝えておいてくれ」
「HAHAHA! ナイスジョークだね、本郷氏!」
俺の返しを聞いた一文字が、まるでアメリカンホームドラマの登場人物のような笑い声を上げながら、大げさなジェスチャーで手を叩く。
「いやぁ、とぼけちゃ困るなあ。ボクの唯一無二の親友と言えば――本郷氏、キミしかいないじゃあないか!」
「……いや、人の事を勝手に親友扱いするんじゃねえよ」
殊更に渋い顔をしてみせながら、抗議の声を上げる俺。
「俺的には、お前は……そうだな、『たまに言葉を交わす程度の、同学年の知り合い』って感じの位置付けで、それ以上でも以下でも無いよ」
「おやおや、それは些か過小評価が過ぎるんじゃないのかい? ボクとキミは、いっしょに仲良く昼食を摂る仲じゃないか。現に今も――」
「今日は……いや、今日も、お前が俺の食ってるテーブルに来て、勝手に座って勝手に話しかけてきてるだけだろうが」
「デュフフフフ! もう、本郷氏ったら照れちゃって。ツンデレだねぇ」
「つ、ツンデレなんかじゃねえよ!」
一文字の言葉を聞いた瞬間、背骨の辺りでゾゾゾと音を立てながら冷たいものが伝ったのを感じた俺は、あまりの心外さに思わず声を荒げるのだった……。




