第九十七訓 しつこい誘いはキッパリと断りましょう
その翌日。
俺は、朝イチで大学へ向かい、研究棟の一室で、残っていた最後のレポートをゼミの教授に提出した。
――これで、前期に取っていた講義は全て終わり。明日から、いよいよ夏休みに突入だ。
レポートの提出を終えた俺は、研究棟を出ると、ズボンの尻ポケットからスマホを取り出した。
電源ボタンを押し、明るくなった液晶画面に『11:12』と時間が表示される。
「……まだ早いけど、飯食ってから帰ろうかな」
そう独り言ちた俺は、行き交うたくさんの学生の間を掻き分けるようにしながら、構内の道を食堂へと向かった。
すれ違う顔は、みな明るい。
みんな、試験やレポート提出を無事に乗り越えられた(本当に乗り越えられたのかどうかは、結果が出るまでは分からないけれど)事と、明日から始まる夏休みへの期待で浮かれている様子だ。
「……」
道を歩く学生たちが、どいつもこいつも希望と夢に満ち満ちた陽キャに見える。
そんな彼らが無性に眩しく見えた陰の者は、すっかり肩身が狭くなって、広い道の隅っこに寄り、目立たないようにして歩くのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
「うへぇ……結構混んでるなぁ」
食堂に着いた俺は、まだ昼飯時ではないにもかかわらず、たくさんの学生たちで混み入っている店内の様子を見て、思わず驚きの声を上げた。
ランチタイムは十一時からのはずだが、食堂のテーブルはもう八割がた埋まっており、あちらこちらから喧騒が上がっている。
……だが、テーブルについている学生たちが、みんな昼食を摂りに来た訳では無いようだ。
「じゃあさ! 海行こうぜ海! 湘南辺りにさ!」
「いやいや、ここは山でしょ。キャンプにバーベキューにキャンプファイヤー!」
「いーや! お台場がいいよ! 今年も、あのテレビ局でイベントやってるみたいだし! ワンチャン、ツッキーに会えるかも!」
並んだテーブルのあちこちから、楽しげな声が上がっている。
どうやら、仲のいい友達同士で集まって、夏休みになってから一緒に出掛ける予定を決めているらしい。
いかにも大学生らしい、輝きと刺激とエロに満ちた夏休みを送ろうとしているようだ。
実に結構な事じゃあないか。
(……べ、別に羨ましくなんて無いんだもんねッ!)
と、ツンデレメスガキのように涙目で叫びたくなるのを堪えながら、俺は空いている椅子に座る。
手に持ったお盆をテーブルの上に置くと、熱々のトンカツから上がる湯気と香りが俺の鼻腔をくすぐった。
そう、今日は奮発して、いつもの天ぷらそば三百五十円ではなく、六百五十円するトンカツ定食にしたのだ。
何せ、今日は前期日程最後の日だ。少しくらい奮発してもバチは当たるまい。
……といっても、さすがに九百円のステーキ定食には手を出せなかったが。
俺は傍らの箸立てから箸を一膳抜き取ると、美味そうな湯気を立てるトンカツ様に向かって両手を合わせた。
「いただきまーす」
そう、小さな声で言って、まずは白飯からがっつこうとした俺だったが――、
――♪ピロポロピロポリポン ♪ピロポロピロポリポン
その動きは、全く空気を読まずに鳴動し始めた無粋極まるスマホの着信音によって遮られた。
「何だよ、このタイミングで……」
今まさにもちもちとした白飯に箸を突っ込もうとしたところで、その動きを強制停止させられた俺は、しかめっ面をしながら、激しく震えているスマホの液晶画面を睨みつけた。
着信中のスマホの液晶画面には、見慣れた固定電話番号と『実家』という文字が表示されている。
「……ウチから?」
俺は、意外な着信に訝しみながら、大音量を上げながら鳴動し続けているスマホを手に取った。
一瞬、このまま放置しようか迷ったが、周囲から迷惑そうに向けられた冷たい視線に気圧され、『応答』の緑のボタンをスライドさせる。
「……もしもし? なに?」
『あ、もしもし~! 颯くんですか~?』
耳に当てたスマホの受話口から、母さんの呑気な声が流れてきた。
俺は、公共の場である食堂で母親からの電話に出てしまった事に少しの羞恥心を覚え、周囲の目を気にしつつ、スマホを頬っぺたに圧しつけながら声を潜める。
「……ああ、そうだよ。つか、俺のスマホに電話してるんだから、俺が出るに決まってんじゃん……」
『ねえねえ颯くん』
俺のツッコミも無視して、母さんは一方的に話を進める。電話口だと、この人はいつもこうだ。
『颯くんさ、明後日、帰って来なさいよ!』
「は? 明後日? 帰って来なさい……って、実家にか?」
『そーそー!』
急な話に戸惑いながら訊き返した俺の言葉に、軽い調子で返す母さん。
俺は、首を傾げながら問いを重ねる。
「明後日って、何で急に? 何かあったっけ?」
『何かって……忘れたの?』
電話口の母さんの声に、呆れの色が混ざり込んだのが分かった。
『明後日――颯くんの誕生日でしょ。まさか、自分の誕生日を忘れたの、アナタ?』
「いや、それは知ってるけど……」
母さんの言葉にそう返した俺は、更に怪訝な顔をする。
「明後日が俺の誕生日だからって、それと家に帰る事に何の関係があるんだよ?」
『そりゃあ、颯くんのお誕生日会をするからに決まってるでしょ?』
「お……お誕生日会ぃ?」
俺は、母さんの答えを聞いて、思わず素っ頓狂な声を上げた。
その声に驚いた周囲の学生たちの視線を一身に浴びて、慌てて身を縮こまらせながら、俺はスマホに向かって小声で応える。
「いいや……別にいいよ、そんなの! この歳になってまで誕生日会とか……みっともない!」
『えぇ~? そんな事無いって!』
拒否する俺に対し、母さんは電話口の向こうで不満げな声を上げた。
『だって今年は、颯くんが二十歳になるっていう、いつもより特別な誕生日なのよ? だから、大人の階段を昇った颯くんをお祝いしようって――』
「ちょ! その言い方、なんか……」
“大人の階段を昇る”という言葉に、どことなく卑猥そうな意味を感じてしまった俺は、上ずった声で母さんの声を遮る。
そして、明後日のスケジュールを思い出し、かぶりを振った。
「あぁ……いや、ゴメン。明後日は無理だわ。普通にバイト入れてる」
『え~っ? 何で誕生日にバイトするのよ?』
俺の答えを聞いた母さんは、あからさまにガッカリした声を上げる。
『バイトなんて、休めばいいじゃない。むしろ、誕生日なんだから休みなさい』
「命令形ッ? いや、無理だって!」
母さんの強引さに辟易しながら、俺は再び首を左右に振った。
「俺が休んだりしたら、売り場が回らなくなるから! メンバーが少なくてカツカツなんだよ、ウチ!」
『別にいいじゃない。回るとか回らないとか、そんなの颯くんには関係無いでしょ。だって、颯くんはタダのバイトなんだもの』
「ま、まあ……確かにそうなんだけど……い、いや、やっぱダメだって!」
一瞬論破されかけた俺は、慌てて言い直す。
『……そっかぁ』
そんな俺の頑なな態度を前に、母さんもしぶしぶ折れたようだ。
でも、すぐに「じゃあ……」と言葉を継ぐ。
『今度の日曜日はどう?』
「え? 日曜……?」
『確か、毎週日曜日はバイト休みだったよね?』
「う……ま、まあ、確かにそうだけど……」
母さんの新しい提案に、俺は一瞬答えに詰まったが、すぐに断りを入れる。
「い、いや! だから、別に誕生日会なんてやらなくていいって! 明後日も日曜日も帰んねーからな!」
『あら……そんなに嫌なの? お誕生日会……』
俺の断固とした拒絶に、母さんは残念そうな声を上げ、それから溜息を吐いた。
『はぁ……分かったわよ。本当にお誕生日会しなくていいのね?』
「何度も言ってるでしょ。必要ないって!」
『残念ねぇ……母さん、とっても楽しみにしてたのに』
「う……そ、その気持ちだけで充分だから……」
『……ミクちゃんも一緒にお祝いしてくれるって言ってたのになぁ……』
「やっぱ行ッきまあああぁぁぁぁぁすッ!」
――母さんがぼそりと呟いた一言で、あれだけ固かった俺の意志は、たったコンマ一秒でひっくり返ったのだった。




