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第九十五訓 お見送りはキチンとしましょう

 赤発条(あかばね)駅の改札口はたくさんの人々で埋め尽くされ、いつもよりもごった返していた。

 特に、家族連れの姿が目立つ。

 まあ、それも当然か。今は日曜日の午前中だ。

 これから、家族で都心のレジャー施設や、お台場のショッピングモールや、隣県のネズミ王国などに向かうのだろう。


「じゃあ……本郷くん、お世話になりました」


 そんな人々が立てる喧騒の中で、場違いなツナギ姿の藤岡が、電車で帰る三人を見送りに来た俺にお礼を言ってきた。


「残念ながら、君の家で決定的な心霊現象に遭遇する事は出来なかったけど、それでも楽しかったよ」

「あ……はあ」


 少し残念そうな藤岡を前に、どうリアクションするべきか迷いながら、俺はぺこりと頭を下げる。


「ええと……ご期待に添えなかったみたいっすけど、良かったっす……ハイ」


 俺が口にした『良かった』には、秘かに『藤岡に楽しかったと感じてもらえた(社交辞令かもしれないけど)』事に対する『良かった』と、『俺の部屋に幽霊が居ない事が分かって良かった』という二重の意味(ダブルミーニング)を含ませていたのだが、二番目の意味は藤岡には気付かなかったようだ。

 彼は、穏やかに微笑むと、背中に背負ったリュックサックを後ろ手で軽く叩きながら言う。


「今回はダメだったけど、次に来る時は、もっと精度のいい装置をたくさん持ってきて再検証するからね。今度こそ、君の家に潜む幽霊の姿を捉える事ができるはずさ。期待しといてくれ!」

「う、うえぇ? ま、また来る気なんすかぁ?」


 力強く言い放った藤岡の言葉に、うんざり声を上げる俺。

 と、藤岡の横に立っていた立花さんが、彼にジト目を向ける。


「……別に、また来るのは勝手だけど、今度はホダカひとりで来なよね。あたしはもうついていかないから」


 彼女はそう言うと、口に手を当てて大きなアクビをした。


「ふわぁぁあ……。心霊検証だか何だかで夜中まで起こされたり、まともな布団も無いところで雑魚寝させられたりなんて、もうゴメンだからね」

「いや……そもそも、僕が連れてきた訳じゃないだろう? ルリが勝手についてきたんだよ」

「う……」


 藤岡の鋭い指摘に、立花さんは憮然として口を尖らせる。

 と、藤岡の左隣に立っていたミクがニコニコしながら口を開いた。


「でも、本当に楽しかったね! みんなでいっしょにご飯を食べたり、大きな銭湯に行ったり!」

「あ……う、うん……」


 ミクの言葉に、俺は曖昧な引き攣り笑いで応える。

 脳裏に、昨日の事が思い浮かんだ。

 夕食の席で、ハンバーグという暗黒物質(ダークマター)を無理やり食べて意識を飛ばした事や、銭湯の浴槽の中で交わした藤岡との会話の事を――。


『本郷くん……君は、未来ちゃんの事が好きなんだろう?』

「……ッ!」


「……どうしたの、颯大くん? 何か変な顔をして……?」

「あ……い、いや……」


 あの時の事を思い出した拍子に、思わず顔が引き攣ってしまったのだろう。そんな俺の表情の変化に気付いたミクが、心配そうな顔で覗き込んできた。


「あ……! い、いや、何でもないよ! 大丈夫!」


 俺は、近づいてきたミクから慌てて距離を取り、わざとらしい笑顔を作りながら、激しく首を左右に振ってみせる。


「……変なそうちゃん」


 幸いにも、ミクはそう呟いただけで、それ以上深く追及しては来なかった。

 俺は、その事に安堵しつつ、その隣で藤岡がどんな顔をしているのか見たくなくて、視線を改札の上の電光掲示板に向ける。


「ほ、ほら! そろそろ電車が来るよ! もう行った方がいいんじゃないか?」

「……そうだね。そろそろ行こうか」


 俺の意図を読んでくれたのか、藤岡が助け舟を出すように促した。


「じゃあ、本郷くん。また今度ね」

「あっハイ」


 別れの言葉を受けて恐る恐る見た藤岡の顔には、いつもと変わらない穏やかな微笑みが浮かんでいる。


「じゃあね、颯大くん」


 ミクが、少し寂しそうな表情を浮かべながら、俺に声をかけてきた。


「大平のお家にも帰って来てね。颯大くんが居なくて、真里さんも寂しそうだから」

「あの母さんが? ……まあ、うん。たまには帰るよ」

「――うん! 私も待ってるからね!」


 ああ、尊い。

 濁りかけた俺の心は、ミクの弾けるような笑顔を見て、瞬く間に真っ白に浄化された。

 と、


「じゃあ、また今度ね、ソータ! 来れる日が分かったらLANEするから!」

「あ……」


 立花さんの声に、俺は朝飯の時に決まった……もとい、決めさせられたあの事を思い出し、再び胸の中に暗雲が立ち込めるのを感じながら、ウンザリとした顔をする。


「……つか、マジで来るの? 料理の特訓をしに……?」

「何さ? 何か不満でもあるの?」


 おずおずと訊ねた俺を険しい顔で睨みながら、立花さんは口を尖らせた。


「いいじゃん。こんなピチピチの女子高生が、アンタん家で心を込めて家庭料理を作ってくれるんだよ? 普通だったら、お金を払ってでもお願いしたい事でしょうが」

「……食わせられるのが、普通の料理だったらね」


 胸を張ってドヤる立花さんに、俺は思わず言い返す。


「でも、実質的には、俺は人体実験のモルモ……痛ッ!」

「き、昨日は油断しただけだもん! 今度は本気出すもん!」


 俺の頬っぺたを思い切り抓り上げながら、立花さんは声を張り上げた。

 そして、藤岡とミクが、自分を置いて改札を通り抜けようとしている事に気付くと、慌ててその後を追いかけていく。

 パスケースを改札に叩きつけるようにタッチした彼女は、改札を通り抜ける前に振り返り、はにかんだ笑いを浮かべながら、俺に向かって手を振った。


「じゃあね、ソータ! ……なんだかんだで楽しかったよ!」

「お、おう、気をつけて帰れよ~」


 俺は、藤岡たちに追いつこうと、小走りで走り去っていく立花さんに手を振り返しながら……少しだけ寂しさを感じてしまうのだった。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 赤発条駅で三人を見送った後、俺は自分のアパートに帰ってきた。


「ふわぁあ……」


 外階段を昇りながら、俺はアクビを噛み殺す。

 あれから二度寝したとはいえ、昨夜の明け方に起こされたせいで寝不足だ。

 せっかくの日曜日の残りは、ベッドの中で費やす事になりそうだ……。

 二階の自室の前に立った俺は、ズボンのポケットをまさぐり、鍵を取り出そうとするが――、


「……と」


 ふと、隣のドアに目を遣った。


「……昨日の事、ちゃんと謝っておいた方がいいかもな」


 昨日の深夜、藤岡の“ソウルボックス”とやらが放つ騒音のせいで、隣に住んでる住人に壁を思い切り叩かれた事を思い出したのだ。

 今後の近所付き合いを考えても、早めにキチンと謝罪しておいた方がいい……そう判断した俺は、迷わず隣のドアの前に移動し、少し緊張しながら、ドアの横に付けられたインターフォンを鳴らす。


 “ピ~ン ポ~ン……”


 ……返事は無い。俺は、もう一度ボタンを押す。


 “ピ~ン ポ~ン……”


 ……やっぱり、返事は無かった。


「……留守かな?」


 呼び鈴の音がちゃんと鳴っているのは、ドア越しにも分かった。

 だが、その音を聴いて人が動くような気配は感じられない。

 ……と、


「そういえば……」


 俺はふと、奇妙な事に気が付いた。


「俺……隣の人の事を見た事あったっけか……?」


 よくよく考えたら、俺は隣にどんな人が住んでいるのか全く知らない。

 何故なら、ここに引っ越してきてからの一年数ヶ月の間、一度も姿を見た事が無かったからだ。

 ……でも、住んでいる事は確かだ。

 現に、昨日の夜、壁を叩いて――。


「おやぁ? 本郷さんじゃない?」

「あ……ども」


 不意に横から声をかけられ、振り向いた俺は、ホウキとチリトリを持った中年女性の姿を見て、ぺこりと頭を下げる。

 中年女性は、このアパートの大家さん・坂上(ばんじょう)さんだった。

 坂上さんは、二階の通路に溜まったゴミや落ち葉をホウキでかき集めながら、不思議そうな顔で俺に尋ねてきた。


「そんなところに立って、どうしたのぉ?」

「あ……ええと」


 俺は頭を掻きながら、坂上さんに事情を説明する。


「実は……昨日の夜、俺の部屋で少しうるさくしちゃったんで、隣に住んでいる方に謝ろうかな……って」

「……はぁ?」

「へ?」


 俺の返事を聞いた途端、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした坂上さんに、俺はやにわに不安を覚えた。


「ど……どうしたんすか? 何で、そんなリアクションを……?」

「『隣に住んでる』って……何を言ってるんだい、本郷さん?」


 キョトンとした顔のままで首を傾げた坂上さんは、「だって……」と、怪訝そうに言葉を継ぐ。


「本郷さんの部屋の隣……随分前からずっと空き部屋だよ?」

「……へ?」


 俺は、思わず耳を疑った。


「え……? い、いや、そんな事は……。だ、だって……現に昨日の夜……」

「いやいや! 大家のアタシがそう言うんだから間違いないよ!」

「……」


 自信満々で断言した坂上さんを前にして、俺は全身の血の気がみるみる引いていくのを感じた。

 そして、無言で回れ右をし、そそくさと外階段を降りようとする。


「あれ? どうしたんだい?」

「あ……あ、あの! ちょちょちょ、ちょっと買い物に行ってきます! ……ドドドドドラッグストアまで!」


 坂上さんにそう言い残した俺は、震える脚を必死で動かしながら、脱兎のごとき勢いで商店街へと急ぐのであった……。


 ありったけのファブローゼをかき集めに……!

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