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第九十三訓 朝起きたらおはようを言いましょう

 「……むにゃ」


 深い眠りの縁から浮上した意識が最初に知覚したのは、チンという鈴のような甲高い音だった。

 それが、トースターが出来上がりを告げる音だと気付いた俺は、重い瞼をこじ開ける。


「ふわぁあ……」


 上半身だけを起こした俺は、両腕を真っ直ぐ上に突き上げて、大口を開けてアクビをした。少し埃っぽい朝の空気を肺に取り入れ、全身に酸素が行き渡った事で、寝惚けていた頭が少しだけスッキリとする。

 俺は目ヤニの付いた目を擦りながら、見慣れた自室の中を見回した。

 と、


「あ、颯大くん、起きた?」

「あ……!」


 キッチンの方から自分に向かってかけられた元気な声を聞いた瞬間、まだボンヤリしていた頭が一気にクリアになり、俺は全てを思い出した。

 ……そうだ。今、この部屋には――!


「お……おう。おはよう、ミク」


 俺は、胸を高鳴らせながら、トースターを開けて少し焦げ目が付いたクロワッサンを取り出しながら声をかけてくれた想い人(ミク)に朝の挨拶をする。


「おはよー」


 俺の声に屈託のない笑顔を浮かべながら挨拶を返したミクは、「熱ちち……」と言いながら取り出したクロワッサンを皿に載せていく。

 ……って、そういえば――。


「……あれ? そういえば俺、キッチンの床で寝てなかったっけ?」


 俺は、ギシギシと軋むベッドの上で首を傾げた。

 確かに、明け方に二度寝する時、冷たいキッチンの床に寝転がった記憶がある。なのに何で、今の俺はベッドに寝てるんだ……?


「あ、それは、私が起きてから、床で寝てる颯大くんをベッドに寝かせたからだよー」


 俺の疑問に対して、ミクがあっさりと答えをくれた。

 それを聞いた俺はビックリする。


「え? ベッドに寝かせた……って、まさかミクが?」

「あ、ううん。まさか。私ひとりじゃ無理だよ」


 俺が発した驚き混じりの問いかけに、ミクは笑いながら首を横に振った。

 そして、半開きになった風呂場のドアを指さして、言葉を継ぐ。


「ホダカさんに手伝ってもらったの」

「ん? 呼んだかい?」


 ミクの言葉を耳にした様子で、ツナギ姿の藤岡が風呂場の中から顔を出した。

 そして、ベッドの上で身を起こしている俺に気付くと、穏やかな笑みを向ける。


「やあ、本郷くん、起きたのかい? おはよう」

「あ……おはようございます」


 藤岡の挨拶に、やや顔を強張らせながら、ぎこちなく頭を下げる俺。

 正直、起きて早々にミクの彼氏(恋敵)の顔を見るのは嫌だった。

 だが、知らないうちに彼に借りを作っていた事は確かなので、ここは素直にお礼を言う事にする。


「えと……俺の事をベッドまで運んでくれたようで、その……すみませんでした」

「ははは、別に謝る事なんて無いよ」


 藤岡は、爽やかな笑い声を上げながら、軽くかぶりを振った。


「そもそも、ここは君の家だし、そのベッドも君のものじゃないか」

「まあ……そうっすけど……重くなかったっすか、俺?」

「いや、全然平気だったよ。こうやって運んだからね」


 そう言うと、藤岡は両腕をやや曲げて伸ばし、手の平を上に向ける。

 そ、その体勢は……!


「お……お姫様抱っこ……?」

「ああ。これが一番運びやすいからね」


 愕然とする俺の表情の変化にも気付かぬ様子で、藤岡はあっさりと頷いてみせた。

 一方の俺が受けた精神的ダメージは、相当なものだった。

 なにせ、俺は男なのに、知らない間に『お姫様抱っこデビュー』を果たしてしまっていたのだ。

 しかも……その相手はよりにもよって、ミクの彼氏ときた……。

 その受け入れがたい事実に、俺は呆然と呟く。


「マジかよ……」

「……いいなぁ」


 ……いや、そこで「私もお姫様抱っこしてもらいたい……」と言いたげな顔をしてるんじゃない、ミク!

 更に俺の心理的ダメージが……。


「て……ていうか、そんな所で何してるんすか?」


 これ以上耐え切れなくなった俺は、話を逸らそうと、藤岡に尋ねた。

 俺の問いかけに、藤岡は「あぁ」と頷いて、風呂場の中から小さなアクションカメラを取り出す。

 そして、その小さな液晶画面に目を落としながら答えた。


「いやぁ……昨日の夜から今朝にかけて録画した、風呂場の映像をチェックしてたのさ。……でも」


 と、藤岡は残念そうに肩を落とす。


「ざーっと早送りでチェックしたから、もしかすると見落としてるのかもしれないけど……心霊現象的な映像は、何も撮れてないっぽいねぇ……」

「あ……そうだったんすか……」


 落胆する藤岡とは対照的に、俺は安堵の息を吐いた。

 この部屋で心霊現象が発生していないのなら、住人としては何よりの朗報だ。

 と、その時、


「だから言ったじゃん。ソータの家に泊まり込んでも無駄だって」


 キッチンの奥から、勝ち誇ったような声が聞こえた。

 コンロにかけたフライパンの中を忙しげに菜箸でかき混ぜながら、立花さんが俺たちの方を一瞥する。


「おはよ、ソータ。……って言っても、もう九時半過ぎだけど」

「あ、おはよう。 ……て、え、マジで?」


 立花さんの言葉に驚いた俺は、慌てて手元に落ちてたスマホを取り上げ、液晶画面を見た。

 ……彼女の言う通り、明るくなった液晶画面の時計は“09:34”を示している。

 それを見た俺は、思わず天を仰いだ。


「しくった……今日のニチアサ見逃した……」

「いや、そっちかい」


 フライパンと格闘しながら、立花さんが呆れ声でツッコんだ。


「まったく……いくら日曜日だからって、もうちょっと早く起きればいいのに」

「いや、そういうルリだって、起きたのは九時過ぎだったじゃないか」

「う……言わなきゃソータには分からなかったのに、バラさないでよぉ」


 藤岡に適切過ぎる指摘を食らった立花さんは、恨めしげな目をして口を尖らせるのだった。

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