第九十一訓 睡眠はきちんと取りましょう
「ふわぁあぁぁ……」
コンビニを出てから数分、もう少しで俺のアパートに着くという頃に、横を歩く立花さんが口を手で押さえ、大きなアクビをした。
それを見て思わず苦笑を浮かべた俺の事を睨みながら、彼女に口を尖らせる。
「……何さ。なんか文句でもある?」
「あ、いや……別に文句とかは……」
俺は、彼女の刺すような視線を受けてたじろぎながら、ポケットからスマホを取り出した。
そして、東に立ち並ぶビルの間から顔を出した太陽の眩い光を遮るように手を翳しながら、スマホの液晶画面に表示された現在時刻に目を落とす。
「しょうがないよ。だって、まだ朝の五時前だもん。そりゃ眠いに決まってるよ」
「え、マジ? そんなに時間経ってたの?」
立花さんは、俺の言葉を聞いて目を丸くした。
「結構長居してたんだ、あのコンビニに……。アイス二個しか買わなかったのに、なんか悪い事しちゃったかな?」
「いやぁ……その間、お客さんは誰も来なかったんだから、別にいいんじゃね?」
気に病む風の立花さんにそう答えた俺だったが、次の瞬間、あんぐりと口を大きく開ける。
「ふ、わあぁぁぁあぁ……」
「何さ、アンタもアクビしてんじゃん」
「……さっき君がしたのが伝染ったんだよ」
そう、ジト目を向ける立花さんに言い返した俺は、ストレッチをするように大きく伸びをして、すぐそこまで近づいてきた自宅アパートに目を向けた。
「まあ……いいや。早く帰って寝ようぜ。今からでも、二時間くらいは眠れるっしょ」
「……そうだね」
俺の言葉に、珍しく素直に返ってきた立花さんの返事。どうやら、彼女も眠気がマックスで、そろそろ活動限界らしい……。
「早く行こ」
そう俺に言ってから、立花さんは小走りでアパートに到ると、建物の横に据え付けられた、錆の浮いた鉄製の外階段を昇り始めた。
少し遅れて、俺も彼女の後に続いて階段に足をかける。
そして、いつものように目線を上に向けると――スラリと伸びた健康的な脚と、その上の――木綿地のハーフパンツに覆われた小ぶりなお尻が視界に飛び込んできた。
「……っ!」
俺の眼は、思わず釘付けになる。
グレーのハーフパンツは少しきつめなのか、彼女のお尻のシルエットを必要以上に誇張しており、更には薄っすらとV字型の輪郭が浮かび上がっていた……!
(あ、アレは……まごう事無き、ぱ、パン――!)
「……どうしたの? 変な顔して固まっちゃって?」
「ふ、ふぇっ?」
頭上から降ってきた訝しげな声が、思わず暴走しかけた俺の意識に冷や水をぶっかける。
慌てて上を向くと、上半身を捻った体勢の立花さんが、訝しげな表情を浮かべて俺の事を見下ろしていた。
それに気付いた俺は、道端に立っている街灯の切れかけた蛍光灯の明滅よりも速く目を瞬かせながら、ブンブンと小刻みに首を左右に振る。
「い、いやいやいやいや! な、なななな何でもないよ俺は何もみみみ見てませんよマジで!」
この状況で、万が一にも立花さんのお尻を見ていた事がバレたりしたら、俺は階段から蹴り落とされかねない。そこまでされなかったとしても、俺に対する彼女の心証と評価が、地表を突き抜けてマントル層まで沈み込む事は確実だろう。
だが……そんな差し迫った危機感でキョドりまくった俺が懸命に発した否定の言葉は、立花さんには当然のように怪しまれたようだった。
「……」
彼女は無言のまま、蔑むような目で俺の事を見下ろし……むしろ見下している。
が、不意に顔をクシャっとさせて大アクビをすると、眠そうに目を擦りながら首を横に振った。
「ふわぁあ……まあいいや。眠いから、早く家に入ろ」
「そ! そうだねそうしようすぐしよう!」
立花さんの言葉を聞いた俺は、窮地を救ってくれた彼女の眠気に感謝しながら、今度は工事現場のランマーのような勢いで首を縦に振る。
そして、すぐ前方にある彼女のお尻を直視しないよう、目線を横に向けながら階段を昇り、上がってすぐ横にある俺の部屋のドアの前に立った。
そして、ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に挿そうとした――その時、
「……!」
ふとある事が頭を過ぎり、ピタリと手を止める。
「……どうしたの? 早く入ろ――」
「シッ!」
訝しげに尋ねる立花さんを強く制した俺は、胸をバクバクと高鳴らせながら、恐る恐るドアに耳を当てた。
背後に立つ立花さんが、そんな俺の動きを見て更に首を傾げたのが、気配で分かった。
「ちょっと……マジで何してんの? 大丈夫?」
「あ……いや……」
呆れと当惑が入り混じった立花さんの声を背中で聞きながら、俺はドアに付けた耳に神経を集中させる。
そして、その体勢のまま、潜めた声で答えた。
「ちょ、ちょっと……ドアを開ける前に、中の様子を確認しておこうかなって思ってさ……」
「……中の様子?」
囁き声での俺の答えを聞いた立花さんの声の調子が、更に怪訝さを増す。
「中がどうしたっていうのさ? だって、部屋には、ホダカとミクさ……」
立花さんの言葉が不意に途切れ、その後に息を呑んだ音が聞こえた。
どうやら彼女も気が付いたらしい、その可能性に。
「えっ、ウソ? ……そ、そういう事?」
「……そういう事」
俺は、立花さんが漏らした声に頷いた。
「もしも……俺たちがコンビニに行っている間に、ふたりの内のどっちか……もしくは両方が目を覚まして――」
「……部屋の中にふたりしかいない事に気付いたら――」
立花さんの声にもう一度頷いた俺は、最悪の想像を頭に思い浮かべ、ごくりと唾を吞む。
ふと、俺の頭の中に、一時期流行ったウェブマンガのキャッチフレーズが浮かんだ。
「恋人同士、密室、早朝。――何も起こらないはずはなく……!」




