第八十六訓 生理現象を我慢しすぎるのはやめましょう
「……は?」
思いつめた様子の立花さんが口にした言葉を聞いた俺は、間の抜けた声を上げた。
一瞬、脳がフリーズした俺は戸惑いながら、今彼女が言った言葉を反芻する。
『……付き合ってほしいの』
「は……はいぃ?」
そして、彼女が何を言ったのか理解すると、当惑と驚嘆で声を裏返した。
(え……? つ、『付き合う』って言ったのか? 立花さんが……俺に? え? 立花さんが俺の事を……? え、マジで?)
俺は激しく混乱しながら、彼女におずおずと訊ねる。
「え……ええと、つ、付き合うって……ま、マジで俺と……? で……でも、君は藤岡の事が好きなんじゃ――?」
「……は? 何言ってんの?」
俺の問いに、立花さんは訝しげに訊き返した。――が、すぐにハッとした表情になると、無言で俺の頭をひっぱたいた。
「痛っ!」
「このおバカ! 何とんでもない勘違いしてんのさ! 今のは、そういう……恋愛的な意味の『付き合う』じゃないよっ!」
「あ……そ、そうなんだ……」
俺は叩かれた頭をさすりながら、顔を真っ赤にして怒っている立花さんを見て、首を傾げながら訊ねた。
「……じゃあ、どういう意味なんだよ?」
「そ、そりゃもちろん……」
立花さんは、俺の問いかけに一瞬口ごもったが、不意にぶるりと身を震わせると、切羽詰まったような表情で浮かべる。
そして、意を決した様子で、小声で囁くように答えた。
「……ちょ、ちょっと近くのコンビニまでト……トイレを借りに行きたいから、そこまで一緒に来て……って、そういう意味……!」
「トイレ?」
立花さんの答えを聞いた俺は、思わず首を傾げ、玄関の横にあるドアを指さす。
「いや、わざわざコンビニまで行かなくても、そこにトイレあるし……」
「あ、あそこじゃダメなの!」
彼女は、俺の言葉を聞いた瞬間に表情を強張らせ、激しく首を左右に振った。
そして、バツ悪げに目を伏せながら、ぽつぽつと言葉を継ぐ。
「だ……だって……あそこにはカメラが置いてあるし……」
「ああ……そういえば、確かに……」
立花さんの言葉を聞いた俺は、小さく頷いた。
彼女の言う通り、トイレ――正確には、トイレと一緒のユニットバスには、発生した心霊現象を映像に収める為のスマホとカメラが設置してある。藤岡が『朝まで回し続ければ、きっと怪奇現象を記録出来るはずだよ!』と鼻息を荒くしながら言ってたから、まだ録画を続けているだろう。
確かに、録画中のビデオカメラの前で用は足せない。
でも――、
「だったら、トイレに入る間だけ録画を止めればいいじゃん。終わったら、また録画ボタンを押せばいいだけの事だろ?」
「そ、そうかもしれないけど……それだけじゃないの!」
立花さんは一瞬言葉に詰まったが、ふたたびかぶりを振ると、恥じらうように目を逸らしながら、小さな声で続けた。
「…………ちゃうじゃん」
「え?」
「こ……ここじゃ、音が……音が聞こえちゃうじゃん!」
「あ、あぁ……なるほどね」
顔を真っ赤に染めている立花さんの剣幕に気圧されながら、俺は彼女の言葉に納得した。
確かに……女の子ならば、他人にそういう音を聞かれたくはないだろう。
ましてや、この部屋には自分の好きな男も居るのだ。
……って、
「いや……だったら、藤岡さんについてってもらえばいいじゃんか。あの人、徹夜で起きてるんだから――」
「……」
俺の言葉に、憮然とした表情を浮かべた立花さんは、無言で横を指さした。
彼女の指が示す先に顔を向けた俺の目に映ったのは――、
「Zzz……」
と、キッチンの下収納の扉に背を預ける格好で安らかな寝息を立てている藤岡の姿だった。
「あら……寝てんのかい。徹夜で起きてるんじゃなかったのよ……」
「まあ……はじめからこうなるとは思ってたけどね」
思わず呆れる俺の言葉に、立花さんが諦め顔で肩を竦めてみせる。
「ホダカさ……いつも必ず夜の十時には寝てるから、徹夜なんて絶対できないだろうなって。思った通り」
「夜の十時って……小学生かよ」
立花さんの言葉に唖然とする俺。
と、その時、立花さんが「うっ……」と呻いて、ぶるりと身を震わせた。
そして、急いで立ち上がって、その場で何度も足踏みしながら、引き攣った顔で俺の事を促す。
「わ……分かったでしょ? 分かったら、早く行こ! あ……あたし、結構限界かも……」
「お、おお……分かった……!」
彼女が浮かべる必死の表情に、その言葉に嘘が無い事を察した俺は、かけていたタオルケットを跳ね除け、急いで立ち上がった。
そして、呑気な寝息を立てている藤岡の体にタオルケットをかけてやり、玄関の方に向かおうとしたが――ふと立ち止まり、リビングの方に目を遣る。
そして、ベッドで寝ているミクの存在を思い出し、やにわに不安を覚えた。
「で……でも、大丈夫かな?」
「……何が?」
「いや……」
苛立ち混じりの立花さんの声を聞きながら、俺はおずおずと懸念を述べる。
「俺たちが外に出ちゃったら、この部屋にはミクと藤岡のふたりしかいなくなるんだぜ? 俺たちが帰ってくるまでの間に、藤岡さんとミクが、その……イチャイチャしたり、あ……ア~ンな事をしたりしないかな? ……って」
「ムッツリスケベ」
と、俺にあからさまな軽蔑の眼差しを向けてきた立花さんだったが、チラリと藤岡の寝顔を見ると、「大丈夫だよ」と軽くかぶりを振った。
「――ホダカは、一度寝たら、何があっても朝まで起きないから。このまま放っておいても何もしないし、出来ないよ」
「そ、そうなの? ……っていうか、なんで知ってんだよ、そんな事?」
「そりゃ知ってるよ。だって、前に試した事あるもん」
「えぇ……?」
「……なに、その顔?」
「アッイエ。何でもないっす」
立花さんにジト目で睨まれた俺は、慌てて目を逸らす。
そんな俺に何か言おうとした立花さんだったが、またぶるりと身体を震わせると、真っ青な顔で俺のTシャツを引っ張った。
「い、いいから! は、早く行くよ! も……漏れ……」
「わああああ! わ、分かった! 行こう行こうすぐに行こう!」
切羽詰まった立花さんの声に、俺は慌ててドアを開けた。
そして、転がるように外階段を駆け下り、最寄りのコンビニへと急ぐのだった――。




