第八十三訓 単語は正しく使いましょう
銭湯『厭離湯』からアパートに帰ってきた俺たちは、ぼちぼち寝る準備をし始めたが……そこで問題が起きた。
「えぇ……これで寝ろって言うの?」
そう言って渋い顔をしたのは、立花さんだった。
彼女は、俺の粗末なベッドと、その横の床に直敷きされた簡易的な“寝床”を指さしながら不満の声を上げる。
「これ……敷布団じゃなくって、長い座布団じゃん。なんか古いし、掛けてある毛布もペラペラだし……」
「文句言わないでよ。ウチにはこれしか無いんだからさ……」
俺は、タンスの中から一枚のタオルケットを取り出しながら答えた。
「そもそも、一人暮らしの男の部屋に、布団が何枚もある訳ないじゃん。この狭いワンルームじゃ、布団をしまうスペースも無いし」
「え~? じゃあ、今日みたいに友達が泊まりに来たらどうするのさ?」
「泊まりに来るほど親しい友達なんて居ないから無問題ですが何か?」
「あ……ごめん」
「……あの、ガチめに謝らないでもらえますかね? 逆に傷つく……」
冗談めかして言った俺の自嘲を真に受けた様子で、シュンとしてしまった立花さんの顔を見て、俺は慌てて言った。
そして、取り出したタオルケットを指さしながら、げんなりした顔をしてみせる。
「つか、敷布団があるだけマシだと思ってよ。俺なんか、キッチンの床の上に、このタオルケット一枚だけでのダイレクト就寝だぜ?」
「いいじゃん、アンタは。男の子なんだから、我慢しなさい」
「男女差別断固反対!」
無慈悲な立花さんの言葉に、思わず顔を引き攣らせながら抗議の声を上げる俺。
――と、その時、ミクが立花さんの肩を叩いて声をかけた。
「それなら、代わろうか? ルリちゃんがベッドを使いなよ。私は座布団の方でいいから、ね?」
「えっ?」
ミクの申し出を聞いた立花さんは、びっくりした顔で目を丸くした後、慌てた様子で首を大きく左右に振る。
「い、いえいえ! そんな気を使ってもらわなくても大丈夫です! べ、ベッドはミクさんが使って下さい!」
「遠慮しないで大丈夫だよ? 私、結構どこでも眠れるから」
断ろうとする立花さんに柔らかな笑みを浮かべながら、ミクは言った。
「自分の部屋でも、床の上で寝落ちしちゃって、そのまま朝まで寝てたりとか普通にしてるしね。全然平気だよー」
「いやいや! それでもダメですって!」
ミクの言葉に、立花さんは更に激しくかぶりを振る。
「ミクさんはベッドに寝て下さい! あたしは、床の上で構いませんから」
「えー、でも……」
再度断られたミクは、困ったように首を傾げるが、突然「あ、そうだ!」と小さく叫ぶと、その目を輝かせると、立花さんに新たな提案を切り出した。
「じゃあさ、ベッドで一緒に寝よっか?」
「……はい?」
ミクの言葉に、立花さんが唖然とした表情を浮かべ、素っ頓狂な声を上げた。
俺も、半分呆れながらミクに言う。
「いや……そのベッド、一人用だぜ。さすがにふたりは寝れないだろ?」
「えー。そう?」
ミクは、俺の言葉に納得しない様子で、ベッドの幅を測るように両腕を広げた。
「でも、ふたりくらいなら平気じゃない? ルリちゃん、身体小さいし」
「ち、小さ……!」
立花さんが呻くように呟くのを聞きながら、俺は首を左右に振る。
「まあ……確かに寝転ぶだけならギリギリいけるかもだけど、寝返りとか打ったら落ちるぞ、絶対。立花さん、寝相悪そ――痛ってえ!」
「誰の寝相が悪そうだってぇっ!」
俺のケツに渾身の膝蹴りを叩き込みながら、立花さんが怒声を上げた。
そして、悶絶する俺を無視して、ミクに向かって首を横に振る。
「べ、別にあたしの寝相は全然悪くないですけど、やっぱりいいです! あたしは床の布団で寝ますから、ミクさんはベッドの方で寝て下さい!」
「え~……残念。ルリちゃんと一緒に横になりながら、色々とお話ししたかったのに……。そういうのって確か――“ピロートーク”だっけ?」
「ぶふぅっ!」
ミクの口から飛び出した単語に、俺は思わず噎せた。
「……どうしたの、颯大くん?」
「あ……あのなぁ……」
俺の反応にキョトンとしているミクに、俺は呆れ顔を向ける。
「お前……思いっ切り意味を間違ってるぞ。そ、そもそも、『ピロートーク』っていうのは……」
「ピロートークっていうのは?」
「え、えっと……」
好奇心に満ちた瞳で訊き返してくるミクを前に、俺は思わず口ごもった。
い……言えねえ……!
『ピロートークっていうのは、夫婦や恋人どうしがエッチな事をした後に交わす会話やイチャイチャの事だよ』だなんて……!
「それは……その……」
「……? どうしたの?」
「いや……あの~……」
「何をモゴモゴ言ってんのさ? あたしも気になるから、さっさと説明してよ。“ぴろーとーく”のホントの意味って何なの?」
いや、君も興味津々かい、立花さんっ!
ふたりに問い詰められた俺は、ますます窮地に追いやられる。
――その時、
「僕が教えてあげようか?」
それまで、部屋の隅でカメラの取り付けをしていて会話に入って来なかった藤岡が、唐突に声を上げた。
「“ピロートーク”っていうのは、男女の――」
「ちょ、ちょ待ったぁっ! 藤岡さん、ストップストップッ!」
俺は、したり顔で口を開きかけた藤岡を慌てて止める。
「そ、そういうドギツいア~ンなヤツは、ふたりにはまだ早いっていうか……」
「え? そうかな?」
「と・に・か・くッ! 今、この場では止めて下さい、マジで! 状況と空気的に!」
「あ……まあ、そうか……」
俺の必死の訴えに、藤岡もしぶしぶ頷いた。
……しぶしぶ?
「ふぅ……」
ともかく、どうやら窮地を脱したらしい事を悟った俺は、安堵の息を吐いた。
ミクは未だに訝しげに首を傾げているが、それでも何となく、今は深く掘り下げちゃいけない類の話題だと勘付いた様子だ。これ以上追及してくる事は無いだろう。
そして、立花さんもおとなしくなった。
「……?」
ふと立花さんの方に目を遣ると、彼女はいつの間にか取り出した自分のスマホの画面に指を走らせながら、何やら検索している様子だった。
……と、その頬がみるみる内に赤く染まった次の瞬間、
「――このドスケベ変態が! 最ッ低ッ!」
「痛ってえええええっ!」
立花さんが目にも止まらぬ速さで繰り出したタイキックに太腿を痛打され、俺は苦悶の表情で絶叫した。
――激痛の涙で滲む視界の隅に、彼女が握りしめるスマホの検索窓に『ぴろーとーく 意味』という文字が打ち込まれているのが映る。
(わ……わざわざ検索したんかい!)
俺は痛む太腿の裏を摩りながら心の中で呆れつつ、理不尽な思いを抱かざるを得ないのだった。
(……いや、この状況で俺だけが蹴り飛ばされるの、おかしくねぇ?)




