第八十二訓 飲み過ぎには注意しましょう
「お待たせ~!」
と、ミクが上機嫌な声を上げながら『女湯』と染め抜かれた赤い暖簾をくぐって出て来たのは、俺たちが入口で別れて一時間ほど経った頃だった。
その柔らかそうなほっぺをほんのりと赤くさせ、しっとりと湿った黒髪を緩く三つ編みにした風呂上がりのミクに内心でドギマギしながら、入り口脇の長椅子に腰を下ろした俺は平静を装って応える。
「お、おお。お疲れ」
「遅くなっちゃってごめんね。気持ちよくって、ついつい長湯しちゃった」
そう言って俺のかけた声に微笑みを返したミクは、少し遅れて女湯から出て来た立花さんに向けて声をかけた。
「ねっ、ルリちゃん。良かったよね、お風呂!」
「え? ……あ、ああ、うん、まあ」
ラフなTシャツとハーフパンツ姿で、乾きかけの髪の毛をバスタオルで拭いていた立花さんは、ミクの問いかけにビックリしながら、ぎこちなく頷く。
「そ、そうですね……。正直、壁とかはかなりボロボロでしたけど、お湯は熱くて気持ちよかった……です」
「あはは。やっぱり、女湯の方もかい?」
立花さんの言葉に愉快そうな笑い声を上げたのは、俺の隣に立っていた藤岡だった。
彼は、入り口脇に置かれた牛乳の自販機で買ったフルーツ牛乳の蓋を開けながら言う。
「いやぁ、男湯の方もかなり年季が入っていて、まるで昭和時代にタイムスリップしたみたいだったよ。ねっ、本郷くん?」
「あっ……、そ、そっスね」
藤岡から話を振られるとは思っていなかった俺は、突然の事に不意を衝かれて、壊れかけのロボットのような怪しい挙動で首を縦に振った。
「……」
そして、俺の答えに小さく頷きながらフルーツ牛乳を一口飲む藤岡の横顔をチラリと一瞥する。
――彼の表情と素振りは、いたって普通に見えた。
(藤岡は……さっきの話、気にしてないのか?)
俺はそう思いながら、先ほど湯船の中で藤岡と交わした会話の内容を思い出していた。
『本郷くん……君は、未来ちゃんの事が好きなんだろう?』
『……はい』
『…………そうか』
……確かに、俺と藤岡は、こういうやり取りを交わした。
藤岡は、もう俺がミクの事が好きな事を知っている。
つまり、彼は、俺が『自分の彼女に横恋慕している不埒な男』だという事を知った……はずなのだ。
……それなのに、俺に対する藤岡の態度は、湯船でのやり取りの以前と全く変わっていない。
いつもと同じように俺ににこやかに笑いかけ、気さくに話しかけてくる。――俺の方は、藤岡と言葉を交わす度に、否が応にもさっきのやり取りがフラッシュバックして、心臓がキュッとするほどに意識してしまっているというのに。
「……」
俺は、何とも言えないやるせなさを感じながら、都合四本目のコーヒー牛乳を手に取り、プラスチックの蓋を取った。
そして、甘いコーヒー牛乳を一口含むと、胸の中から溢れ出てきた苦い思いと一緒に飲み込む。
……いくら美味いコーヒー牛乳でも、さすがに四杯目ともなると、味に飽きた。
「げっぷ……」
俺は思わずこみ上げてきたゲップを、手の甲を口に圧しつけてごまかす。
と、その時、
「飲み過ぎじゃない? どれだけ好きなのさ、コーヒー牛乳」
立花さんが、俺が座る長椅子の上に置かれた三本の空き瓶を見つけて、呆れ声を上げた。
飲み過ぎか……うん、俺もそう思う。
でも……しょうがないじゃん。ミクたちを待ってる間、傍らで絶え間なく喋りかけてくる藤岡の質問に答えずに済むよう、ハイペースでコーヒー牛乳をがぶ飲みして口の中を満たしていたんだから。
……とはいえ、それを馬鹿正直に答えるのは、さすがに憚られた。
「い……いいじゃん。美味いんだからさ」
俺は、ジト目で睨んでくる立花さんから目を逸らしながら、言い訳がちに答え、コーヒー牛乳をもう一口呷る。
「……まだ飲むんだ。糖尿病になっても知らないよ」
「余計なお世話だよ」
立花さんのお節介な言葉に、俺は鬱陶しいと言わんばかりに憮然とした顔をしてみせた。
と、
「ダメだよ、颯大くん! ルリちゃんは、颯大くんの体を心配して言ってくれてるんだよ? ちゃんと言う事を聞いてあげないとダメ!」
「へ?」
ミクが、真剣な顔をして俺の事を叱り――それを聞いた立花さんがキョトンとした顔をし、すぐに目を大きく見開きながら、激しく首を左右に振った。
「い、いやいやいやいや! べ、別にあたしは、こいつの体なんか心配してませんから! へ、変な誤解を招くような事を言わないで下さいッ!」
「うふふ、いいんだよ、私にはちゃんと分かってるから、ね」
「だから……さっきも言いましたよね? そういうんじゃないって……」
なんでか分からないが意味深な微笑みを浮かべるミクに、辟易とした様子で訴えかける立花さん。
俺は、そんなふたりの事をぼんやりと見ていたが――、
「……本郷くん、ひとつ相談があるんだけど……」
そんな俺に、藤岡が言いづらそうに声をかけてきた。
そんな彼の事を訝しみながら、俺は返事をする。
「あ、はい。何すか?」
「実はさ……」
そう言いながら、藤岡はおずおずと、手に持ったフルーツ牛乳の瓶を指さした。
「僕……初めてフルーツ牛乳っていうものを飲んでみたんだけどさ……。正直言って、ちょっと苦手な味で……」
「あっ、そうなんですか。フルーツ牛乳が苦手って珍しいっすね」
「それでさ……」
藤岡はそう言うと、俺が持っていたコーヒー牛乳の瓶を指さす。
「君のコーヒー牛乳を、このフルーツ牛乳と交換してくれないかな? ちょっとしか口を付けてないから、ほとんど残ってるよ」
「え? ……あ、まあ、いいっすよ」
藤岡の提案を聞いた俺は、一瞬当惑したものの、すぐに頷いた。
正直なところ、これ以上甘ったるいコーヒー牛乳を胃に流し込んだら逆流しちゃいそうだったんだ。味変できるのなら、こちらとしても有難い。
「そっか、ありがとう!」
俺が頷くのを見た藤岡は、安堵の表情を浮かべながらフルーツ牛乳の瓶を差し出してきた。
それを受け取った俺は、自分が持っていたコーヒー牛乳の瓶を彼に渡す。
――と、その時、
「それ、あたしにちょうだいッ!」
「う、うわっ?」
必死な響きの籠もった叫び声と共に伸びてきた手に、港で観光客のパンを掠め取るカモメさながらのスピードでフルーツ牛乳の瓶をかっ攫われた俺は、ビックリして悲鳴を上げた。
「な、何をいきなり……」
「いや……こ、これ以上飲んだら、お腹下しちゃうって! だ、だから……あたしが代わりに飲んであげるって……そ、そういうコト!」
「あ……っ」
奪い取った瓶をしっかりと握りしめながら、もっともらしい理由を付ける立花さんの目が異様にぎらついているのを見た瞬間、俺は瞬時に彼女の真意を悟る。
(――藤岡が口に付けたフルーツ牛乳の瓶での間接キス狙い……だとッ?)
俺は、腰に手を当ててフルーツ牛乳を一気に飲み干す立花さんが浮かべる恍惚の表情を、ただ茫然と見ていた。
――そして、同時に名案を閃く。
(……なら、俺のコーヒー牛乳をミクに飲んでもらえれば、俺とミクがか……間接キッスを……っ!)
俺は、背徳心で心臓が高鳴るのを感じながら、藤岡に向かって叫んだ。
「あ、あの、藤岡さんッ! や、やっぱコーヒー牛乳返して――!」
「……あ、ごめん、もう飲んじゃった」
「ふぁっ……?」
俺の目に映ったのは、申し訳なさそうな顔をしている藤岡と、彼の手に握られた空っぽの牛乳瓶……。
「まだ飲みたかったのかい? じゃあ、僕が新しいのを買ってあげるよ」
「あ……い、いいっす……お気遣いなく……」
俺はがくりと肩を落としながら、藤岡の申し出にかぶりを振る。
そして……そんな俺に、更なる残酷な事実が追い打ちをかけるのだった。
(俺のコーヒー牛乳を藤岡が飲んだ……。つまり、俺と藤岡が……間接キッス……)




