第七十九訓 他人のモノをジロジロ見るのはやめましょう
「本郷くん、これでいいのかい?」
一度脱衣所に行った藤岡が戻って来て、訝しげに首を傾げながら俺に尋ねてきた。
その顔には、俺が言って脱衣所から取ってこさせたメガネをかけていたが、そのレンズは湯気で真っ白になっている。
「うーん……確かに、僕はメガネをかけないと全然見えないけどさ。風呂の中じゃこんな風に湯気で曇っちゃうから、メガネをかけてもかけなくてもあんまり変わらないと思うんだけどねぇ……」
「……別に、藤岡さんが見えなくても、それは関係ないんすよ」
湯船に浸かっていた俺は、さっき藤岡に顔を凝視された時の事を思い出してブルリと身を震わせながら答えた。
「一番大切なのは、あなたが焦点を合わせようと凝らした目を、他の人に見られないようにする事なんで……」
「良く分からないなぁ……」
俺の言葉に、藤岡はキョトンとした顔で再び首を傾げる。
そして、急に顔を顰めると、大きなクシャミをした。
「うう……脱衣所に行ったら、少し体が冷えちゃったみたいだ。僕も湯船に入っていいかな?」
「あ、ハイ。もちろんっす」
寒そうに二の腕を摩っている藤岡に、(広い湯船なんだから、別に俺に断りを入れなくてもいいんだけどな……)と思いながら、俺はコクンと頷く。
それを見た藤岡は、「ありがとう」と律儀に感謝の言葉を述べ、腰に巻いたタオルの結び目を解きながら湯船に足を入れた。
湯船に浸かっている俺の顔の高さと、立った状態で湯船に入ってきた藤岡の腰の位置が、ちょうど同じ高さになる……。
「……!」
俺は反射的に腰を浮かし、近づいてくる藤岡から少し距離を取りながら顔を背けた。
藤岡の股にぶら下がっているブツを、至近距離で直視したくなかったからだ。
――と思いつつ、顔を背けつつ、横目でチラリと覗き見てみる俺。……いや、やっぱり気になるじゃん。好きな幼馴染の彼氏が、どんな得物を携えているのかがさ。
藤岡は、そんな俺の視線にも気づかぬ様子で、腰に巻いていたタオルをはらりと取り去った。
次の瞬間、俺は大きく目を見開く。
「な……ッ!」
「……ん? どうかしたのかい?」
思わず俺が漏らした驚愕の声を耳にした藤岡が、怪訝な表情で訊ねてきた。
「あ……い、いえ……な、何でもないっス……」
俺はしどろもどろになりながら、激しく首を左右に振る。
「そうかい? ならいいんだけど」
俺の返事に軽く頷いた藤岡は、湯船の中で立ったまま体を捻り、腰から取り払ったタオルを湯船の外で絞る。
そんな藤岡の体の一部分を、俺は恐る恐る見返した。
――『すごく……大きいです……』
改めて藤岡の藤岡を視界に収めた俺の頭の中を、ネットで頻繁に見るネタ画像のセリフが光速で過ぎる。
『いや、なんだコレ? 人並みってレベルじゃねえぞ!』――思わずそう叫び出しそうになるのを、俺は懸命に堪えた。
……なめこどころじゃなかった。
松茸――否、もはやアレは“ネオアームスト〇ングサイク〇ンジェットアームスト〇ング砲”レベル……!
いや、虫も殺さないような優しげな顔をしておきながら、股間になんちゅう兇悪なブツをぶら下げてるんだよ、この男!
「……やっぱり、僕に何か言いたい事があるのかい?」
「アッイエ。べ、別に……」
俺の心の叫びを敏感に感じ取ったらしい藤岡の問いかけに、俺は彼……正確には彼の股間から顔を背けながら答えると、こっそりお湯の中で自分の股間を手で覆って隠すのだった……。
◆ ◆ ◆ ◆
「確か……本郷くんは二年生だったっけ?」
並んで湯船に浸かってから、たっぷりと五分ほど沈黙の時が流れた後、口を開いたのは藤岡の方だった。
話しかけられた俺は、なぜか緊張しつつ、ぎこちなく頷いて答える。
「あ……はい。大昇大学の史学科の二年っす」
「へぇ~、すごいねぇ。じゃあ、ゆくゆくは歯医者になるんだ」
「あ……いえ。それは歯の方の“歯学科”……。俺は、歴史の方の史学科っす……」
「……あ、そっちか。歴史の方か」
「……紛らわしくてすみません」
別に何の落ち度も無いのに、反射的に謝ってしまう俺。(これだからコミュ障は……)と、我ながら呆れる。
そんな俺の答えに、藤岡は苦笑しながら手を左右に振った。
「あ、いや。こっちの方こそゴメン。他人の大学の学科を間違えるなんて失礼だよね」
「あ、いえ。お気遣いなく……」
「……」
「……」
束の間の会話があっけなく途切れ、俺と藤岡の間に再び沈黙が流れる。
「……」
「……」
……く、苦しい!
俺は、鉛のように重く垂れ込める気まずい空気に耐えかねて、救いを求めるように周囲に目を巡らせるものの、俺たちの雰囲気を汲み取って助け舟を出してくれる奇特な人などいようはずも無い。
「……」
「……」
――そういえば、今まで俺と藤岡が二人きりになる状況など無かった。
俺と藤岡が顔を合わせている時にはミクや立花さんが必ずいて、そのどちらか……あるいは両方が常に話のネタを切り出していた。
だから、ここまで会話が途絶える事は無かったのだ。
だが……今は違う。
頼みの綱のミクと立花さんは、分厚い壁の向こう――女湯にいる。彼女たちからの会話ネタの供給は望めない。
だからといって、俺の方から会話を切り出すなんて事も難しかった。
そんな高いコミュニケーション能力を求められる高等技術……“陰キャオブ陰キャ”である俺には、家族やミク……あとは一文字くらいにしかできない。
なので、あとの頼みの綱は藤岡だけなのだが……どうやら彼も、俺ほどではないにしろ、積極的に会話をしたがるタイプでは無いようだ。
――よって、この重苦しい沈黙は、更に続く。
「……」
「……」
き……気まずい!
俺は相変わらず黙りこくったまま、目の前のお湯がさざ波を立てる様をひたすらに凝視する。
(……もう上がろう)
ひたすら続く沈黙に耐えかねた俺がそう判断するまでは、そう時間がかからなかった。
正直、久しぶりの広い風呂でもっと寛ぎたいところではあったが、隣に座っている“想い人の彼氏”と沈黙ガマン大会をしているような状況では寛ぐもクソも無い。
さっさと上がって、脱衣場の籐椅子に座ってコーヒー牛乳でも飲んでた方が、今よりはずっと安らげるに違いない……。
そう決めた俺は、おずおずと藤岡に切り出す。
「ふ、藤岡さん、すみません。俺、もう上がり――」
「――本郷くん」
だが、俺の言葉は藤岡の声に遮られた。
彼は、腰を浮かしかけた俺の顔を見上げると、真顔で言葉を継ぐ。
「……ひとつ、君に訊きたい事があるんだけど、いいかな?」
「え……?」
藤岡の言葉の響きに、俺の心は僅かにざわめいた。
だが、俺は微かな不安を覚えながらも、コクンと頷いて浮かした腰を下ろす。
「あ、はい。……大丈夫っす」
「ありがとう」
藤岡は、俺の返事にニコリと微笑みながら、こくりと頷いた。
そして、湯面に視線を落としながら、おずおずと口を開く。
「……未来ちゃんやルリが居ない今しか訊けない事なんだけどね」
そう前置きした藤岡は、湯面に向けていた目を俺の方に向けると、真剣な表情でこう尋ねた。
「本郷くん……君は、未来ちゃんの事が好きなんだろう?」
――と。




