第七十七訓 女の子をひとりにするのはやめましょう
「えーとぉ……」
不安そうな表情で本気で自分の事を心配するミクに迫られた立花さんは、困ったような声を出しながら一歩後ずさる。
そして、チラリと俺の方を見た。
俺に向けられた眼差しは、明らかに「ちょっと、幼馴染だったら何とかしてよ!」と強く訴えている。
「あ……」
彼女に助けを求められても、どうしたらいいのか全く浮かばなかった俺だったが、とりあえずミクに声をかけてみる。
「ええと……あのさ、ミク! だ、大丈夫だよ、多分!」
「颯大くん……?」
俺の声を耳にしたミクは、険しい表情を浮かべながら訊き返してきた。
「なんで? どうして大丈夫だって言い切れるの? ……だって、あの家には幽霊がいるんでしょ?」
「いや、幽霊なんて居……」
『幽霊なんて居ない』と言いかけた俺だったが、この前体験したラップ音現象だかポルターガイスト現象だかが脳裏を過ぎり、喉の途中で言葉を詰まらせる。
実家から帰ってきてからもちょいちょい耳にしていた怪音を、俺は「家鳴りだ家鳴り!」と思い込む事でやり過ごしていたのだが、改めて考えると、やっぱり無理があるような気がしてきた……。
そうなると……やっぱりあの家には……!
「い……いやいや!」
俺は激しくかぶりを振って、頭の中を占めかけた嫌な想像を追い払うと、もっと客観的な『立花さんがひとりでシャワーを浴びても安心な理由』を捻り出した。
「いや……だ、大丈夫だよ。だって……俺が自分家のシャワーを浴びてても、後ろに気配を感じたりとか、いきなり背中を触られたりとかみたいな体験をした事は一回も無いもん!」
「あ……そうなの?」
俺の言葉を聞いたミクが、意外そうに眼を見開いた。
そして、顎に指を賭けながら、小さく頷く。
「そっか……。そういえば、颯大くんは、毎日あの家でお風呂に入ってるんだもんね。なのに、そういう怖い体験をした事が無いって言うのなら……」
「そうそう、そういう事!」
俺は、ミクの言葉に些か大げさなリアクションで頷いた。
まあ……実際は、毎日風呂に入ってるって訳じゃないし、あのラップ音現象が起こってから昨日までは、怖さのあまり、風呂場の扉を全開にしながらシャワーを浴びたりしてたけど……。
「だ――だから、立花さんがひとりでシャワーを浴びても、何も起こるはずが無いんだよ!」
「ほら! 他ならぬ家主がそう言ってるんだから、大丈夫ですよ」
立花さんが、俺の言葉に続いて、殊更に明るい口調で言った。
それでも「でも……」と何か言いたげなミクに、立花さんは安心させるように満面の笑みを向ける。
その笑顔に、ミクもしぶしぶ納得しかけた――その時、
「……いや、大丈夫とは限らないよ」
収まりかけた場の空気を読まない声が上がった。
その声の主は――藤岡だった。
彼はかけているメガネのツルに指をかけて、まるで〇尾くんのようにクイッと上げると、真剣な顔で言葉を継ぐ。
「たとえ、本郷くんが風呂に入っている時に何も起こらなかったとしても、ルリが入っても大丈夫だという保証は無いよ。僕は心配だ」
「え……?」
藤岡の言葉を聞いた立花さんが、大きく目を見張った。
「し、心配……? ホダカが……あたしの事を……?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、上ずった声で呟く立花さん。
そんな彼女の顔をチラリと見てから、俺は怪訝な声で藤岡に尋ねた。
「保証は無いって……どうしてっすか? ずっとあそこで風呂に入ってる俺が平気なのに――」
「本郷くん――あそこで亡くなったという人……確か、お爺さんだったという話だったよね?」
「え……?」
藤岡に質問を質問で返された俺は、面食らいながらもコクンと頷く。
「あ……ハイ。不動産屋からはそう聞いてます。……けど、それがどうしたって言うんですか?」
「お爺さん……つまり、男だろ?」
「そ……そりゃそうでしょうね。……って、いや、だからそれが一体何だって――」
藤岡が何を言おうとしているのかが解らず、少しイラつきながら訊き返す俺。
そんな俺に、藤岡は真剣な眼差しを向けながら問いを重ねる。
「本郷くん。君なら、男と女どちらの裸を見たいかい?」
「は、はぁ?」
俺は、藤岡の脈絡のない質問に混乱しながらも、反射的に答えた。
「そ、そりゃ、女の裸に決まってるっすよ!」
「うわぁ、サイテー……」
「と……とにかくっ!」
立花さんの幻滅混じりの呆れ声を耳にした俺は、顔を引き攣らせながら更に声を荒げる。
「それがどうしたって言うんすか――」
「君の家に棲むお爺さんの幽霊も、君と同じ考えなんじゃないのかな?」
「――ッ!」
藤岡の鋭い指摘に、思わず虚を衝かれる俺。
「幽霊になっても、男に変わりはない。同性の男である君が風呂に入っていても興味は無いだろうけど、一応は女の子のルリが風呂に入っているとしたら、彼がどう考え行動するのか――想像するのは簡単じゃないかい?」
「た……確かに……!」
「あのさ、ホダカ……。『一応は女の子』って、どういう意味ッ?」
愕然とする俺と憤然とする立花さん。
一方、藤岡の話を聞いたミクは、先ほどよりも真剣な顔になって、立花さんの二の腕を掴んだ。
「ルリちゃん! ホダカさんの言う通りだよ! ひとりで居たら、あそこの幽霊にどんな怖い思いをさせられるか分からないよ! だから……ここの銭湯でお風呂に入ろうそうしよ!」
「い、いや……」
ミクの剣幕に気圧されながらも、立花さんは断ろうとする。
「ていうか……そもそも、あたしは幽霊とか信じてな――」
「そうだよ」
「……ッ!」
藤岡の声を聞いた途端、立花さんの動きがピタリと止まった。
そんな彼女に、藤岡は諭すように言う。
「ルリ、未来ちゃんの言う通りにするべきだ。僕も心配だよ、ルリがひとりであの家に居るとなったらさ」
「ふぇっ……?」
藤岡の言葉に、立花さんの頬はたちまち真っ赤に染まった。
それから少しの間、彼女は両手を頬に当てながら身悶えていたが、ふと締まりの無い笑い顔になると、藤岡に向かって胸を張りながら答える。
「そ……そこまでホダカとミクさんに心配されたらしょうがないなぁ~。きょ、今日のところは、このボロ銭湯でガマンしてあげるよ!」
「……いや、何でツンデレ風やねん」
どこぞの高飛車悪役令嬢のような立花さんに思わずツッコむ俺だったが、彼女にギロリと睨まれ、慌てて目を逸らした。
そんな俺たちの鍔迫り合いにも気づかなかった様子のミクが、嬉しそうに笑いながら、暗闇の中で煌々と白く輝く銭湯の看板を指さす。
「良かったぁ~。じゃあ、早速入ろ! この……」
……だが、ミクの言葉は途中で止まった。
彼女は、看板を見上げたまま小首を傾げ、それから俺の方に向き直ると、「あの、颯大くん……」と、困ったような顔で訊ねてくる。
「これ……なんて読むの? 難しくて読めない……」
「あぁ……これね……」
俺は、ミクが指さした看板の『厭離湯』という文字を見上げながら苦笑した。
「確かに、普通は読めないよなぁ」
「……ホントだ」
俺と同じように看板を見上げた立花さんも、訝しげに首を傾げる。
「なんだろ? い……いや……いやはな……『いやりゆ』? ……全然分かんない」
「おんりーゆー」
「……は?」
立花さんは、俺の答えに眉を顰めながら訊き返した。
「何、いきなり? オンリーユーとか、いきなり英語……何で?」
「いや、英語じゃないよ」
そう答えて、俺は看板を指さす。
「その看板の読み方だよ。『厭離湯』。“厭離”――つまり、穢れた現世から離れるように、さっぱりすっきり出来る銭湯……って意味で付けたらしいよ。分かった?」
「はああああああ~っ?」
立花さんは、俺の答えを聞いた瞬間、飛び出さんばかりに目を剥きながら絶叫した。
「ンなモン、分かるかあああああああああッ!」




