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第七十六訓 ストレートな物言いは避けましょう

 まあ……そんな感じで何やかんやあった夕食を摂り終えた俺たちは、着替えを入れたバッグを持って、八時過ぎにアパートを出た。

 初夏の長い日も暮れた夜道を、チカチカと心細げに瞬く街灯を伝うように歩いてやってきたのは――創業三桁年を数えるという、古き良きトラディショナル・パブリックバスだった。


「……“トラディショナル(伝統的)パブリックバス(公衆浴場)”って、なに英語でオシャレ感出そうとしてんのさ。普通に“銭湯”って言いなよ」


 立花さんは、俺に呆れ顔でツッコミを入れると、眉を顰めながら目の前の瓦葺きの建物を見上げ、うんざりした声で言葉を継いだ。


「つか、これは“古き良き”じゃなくて、“廃屋寸前”って言うんじゃないの……?」

「は、廃屋寸前って……もう少しこう……何というか、手心というか……」


 俺は、立花さんの歯に衣着せぬ言葉へのリアクションに困り、とりあえず建物の横から天に向かって聳え立つ巨大な煙突を見上げた。

 夜闇に紛れて良く見えないが、煙突の側面には大きな温泉マークと『厭離湯』という店名が書かれているのを知っている。


「ははは……」


 辛辣な立花さんの言葉と、それに戸惑う俺の様子に、思わずといった感じの苦笑を漏らしたのは藤岡だった。

 彼は「確かにね……」と、立花さんに同意すると、画家がするように両手の親指と人差し指で四角を作り、そのまま数歩後ずさる。

 そして、外壁が煤けたように黒ずんだ、いかにも歴史を感じさせる銭湯の全景を指で作ったフレームに収め、片目を瞑って覗き込むと、満足げに頷いた。


「うん……なかなか雰囲気はあるね。立派な心霊廃墟だ」

「いや……“立派な心霊廃墟”って何すか……」


 嬉しそうな顔で藤岡が呟いた声に、俺は思わず頬を引き攣らせる。

 そして、正面玄関の軒先から吊り下げられた、ボロボロの傘が付いた裸電球の黄色い光に照らし出されている、えらく年季の入った藍色の暖簾を指さした。


「ほら、廃墟なんかじゃないっすよ! 確かに結構ギリギリですけど、ちゃんと現役で営業中っす! ……まあ、もしかしたら、幽霊のひとりかふたりくらい、客に紛れてお湯に浸かってるかもしれないっすけど」

「あ、“心霊”の方は否定しないんだ……」


 俺の言葉を聞いた立花さんが、呆れ声で呟く。

 と、


「でも、とっても素敵じゃない? なんか、昔の映画とかドラマとかによく出てきた銭湯そのまんまで」


 ミクが、目を輝かせながら声を弾ませた。


「確か……中に入ると、番台に座ってるお店の人にお金を渡すんだよね?」

「あ……いや。この前、自動販売機が導入されたから、そこで買ってチェックインするんだよ。現金だけじゃなくて、各種電子マネーにも対応してる最新式のやつ」

「いや、そこは最新式なんかーいッ!」


 ミクの問いかけに対する俺の説明に、すかさず立花さんがツッコんでくる。


「せっかくこんな外観なんだからさぁ。なんつーか……風情というか……」


 ところどころにヒビの入っている薄汚れた外壁を横目で見ながら、彼女はもどかしげにぼやいている。

 俺は、そんな彼女を安心させようとして、言葉を継いだ。


「あ、でも、安心して。風呂の中はしっかりボロボロだから」

「いや! 『安心して』って言う意味が分からないんだけどぉっ!」


 立花さんは、目を血走らせながら、俺に向かって怒鳴った。


「ふつうは、自動販売機を導入するお金があるんだったら、お風呂とか建物の方に使うもんじゃないの? 順番が逆でしょうがッ!」

「いやぁ……別に俺はここの経営者じゃないから、何とも……」

「まあ、それはそっか……」


 俺の答えに、立花さんは憤懣のやり場に困った様子で、頬を不満げに膨らませる。


「……まったく、何が悲しくて、こんな潰れかけの銭湯に入りに来なくちゃいけないのさ……」

「いや……だったらさ」


 恨めしげにぼやく彼女に、俺は来た方向を指さしながら言った。


「立花さんだけ先に帰って、ウチのシャワーを浴びればいいんじゃない? ウチはボロいけど一応リフォーム済みだし、風呂場はその時にユニットごと変えてるらしいからキレイだよ?」

「え……?」


 俺の提案に、立花さんは目を丸くし、当惑混じりの声を上げる。

 そんな彼女に、俺は更に言葉を続けた。


「元々は、ワンルームの俺の家じゃユニットバスはあっても脱衣所が無くて、着替えられないから困るって話から、『じゃあ銭湯に行こう』って流れになった訳じゃん。でも、立花さんひとりだったら、そのあたりの問題がクリアされる訳で、だったら嫌々銭湯(ここ)の風呂に入らないと駄目な理由も無くなるじゃん」

「あ……確かに……」


 俺の言葉に、立花さんはポンと手を叩く。


「そっか……別に、ひとりだけだったら、あのリビングで服を脱いでもいいのか……」


 そう呟いてうんうんと頷いた彼女は、すぐに決断した様子で、俺に向かって手を伸ばした。


「じゃ、そうする! ソータ、家のカギ貸して!」

「あ、うん」


 立花さんに促され、俺は慌てて鍵を取り出そうとポケットの中に手を入れる。

 と、その時、


「ううん! それはダメ!」


 断固とした拒絶の声が上がった。

 その声を発したミクは、激しく首を左右に振りながら、立花さんに向かって言う。


「ひとりでシャワーなんてダメ。ルリちゃんも、私と一緒にお風呂入ろ? その方が楽しいよ!」

「え? えっ?」


 なぜか、妙に押しが強いミクを前に、立花さんがびっくりした顔で目を丸くした。


「あ……い、いや、あたしは別に、お風呂に楽しさとか求めてないんで……」


 あからさまに警戒している。

 無理もない。普段はおっとりしているイメージのミクからこんなにグイグイ来られたら、普通は怪しむ。

 だが、それでもミクは諦めない。


「ううん、絶対に楽しいよ! お風呂で女の子同士のナイショのお話するとか」

「あ……い、いえ……だから、あたしは別に、そういうのはあんまり……」

「……それに……もしかしたら、危ないかも……」

「……え?」


 立花さんは、それまでとは急にトーンを変えたミクの声に、思わず訊き返した。


「あ……危ない? 何が……ですか?」

「だって……」


 不安そうな表情を浮かべた立花さんに、ミクは真剣な顔で答える。


「――颯大くんの家には、幽霊が居るんだよ? そんな所に女の子が一人でお風呂に入ってたら危ないんじゃない?」

「……はい?」


 ミクの言葉を聞いた瞬間、立花さんの目が点になった。

 そんな彼女に、ミクが顔を強張らせながら、更に言う。


「頭とか洗ってる時に、幽霊が後ろに立ってたりとかしてても、ひとりじゃ助けも呼べないんだよ! 危ないよ!」

「い、いや……え、ええと……」


 立花さんは言葉を探しながら、困ったような目で俺の方を見る――が、俺も彼女と負けず劣らず当惑していた。


 ――あれ?

 ミクの奴……ひょっとして、本気で俺の家に幽霊が居るって信じてる系……?

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