第七十五訓 嬉しい事をしてもらったら素直にお礼を言いましょう
……結局、
俺は、テーブルの前にずらりと並んだ胃腸薬の中から『キャベヅン』を選んだ。
パッケージに記された用量に従い、二粒分のカプセルを取り出す。
「――はい、颯大くん。お水」
キッチンから来たミクが、水が満たされたコップを俺の前に置いた。
「お、おう、サンキュ」
「うふふ、どういたしまして」
ミクは、礼を言った俺にニコリと笑いかけ、意味深に片眼を瞑ると、藤岡に手招きする。
「……ホダカさん、ちょっと洗いものを片付けるのを手伝ってください」
「え?」
テーブルの片隅でポケットラジオのような機械をいじっていた藤岡は、ミクの言葉を聞いて戸惑う様子を見せた。
彼は、手に持っていた小さな機械を指さしながら、困ったような顔で首を横に振る。
「あ……ごめん。僕は今、この“ソウルボックス”の最終調整を――」
「お願いします」
「――ッ!」
静かな……それでいて、決して抗う事を赦さない断固とした意思を内包したミクの声に、藤岡はビクリと肩を震わせ、慌てた様子で立ち上がった。
「う、うん、分かったよ未来ちゃん! 洗いものだね? 早く片付けちゃおう!」
「いえ……」
藤岡の言葉に、なぜかミクは首を横に振る。
「――ゆっくりやりましょう。たっぷり時間をかけて……ね?」
「? あ、ああ……分かった……よ?」
なぜか殊更に『たっぷり時間をかけて』を強調したミクの言い方に、藤岡は訝しげな表情を浮かべつつ頷くと、ミクの後に続いてキッチンへ向かった。
「ええと……じゃあ、僕は何をすればいいのかな?」
「あっ、はい! じゃあ……まずは、洗ったフライパンとか鍋とかを布巾で拭いて下さい!」
「あ、うん。分かった」
藤岡はミクの言葉にコクンと頷くと、ツナギの袖を捲って、手にした布巾で洗いたてのフライパンの水気を拭き取り始める。
すると、キッチンの流しに向けて彼が丸めた背中越しにぴょこりと顔を出したミクが、しきりに片目をパチパチさせた。
……どうやら、俺だけに向けたサインのつもりらしい。
さしずめ、『ルリちゃんと二人きりにしてあげたから、あとはがんばってね~』っていう意味か。
……そういえばあいつ、何でか知らないけど、俺と立花さんの事をくっつけようとしてるんだっけ。
「……俺も立花さんも、そんな気は全然無いのになぁ」
「え? なんか言った?」
「あ……。い、いや、何でもない……」
無意識に口に出てしまった独白を立花さんに聞かれてしまった俺は、慌てて首を横に振った。
そんな俺の反応をキョトンとした顔で見ていた立花さんだったが、何かを思い出したようにハッとした顔をすると、テーブルの上に乗ったコップを手に取り、俺に向けて突き出す。
「そんな事より! ほら、早く薬飲んで! おなか痛くなってからじゃ遅いんだからッ!」
「あ、う、うん。ラジャっす……」
俺は彼女の剣幕に圧されつつ、二錠のカプセルを口中に放り込み、すぐに水で喉に流し込んだ。
少し大きめのカプセルが食道の途中で引っかかりかけた感触があったが、何とか胃の方に流れ落ちてくれたようだ。
すすと、俺の喉の動きを凝視していた立花さんが、真剣な表情で俺に尋ねてきた。
「飲んだ? ちゃんと飲んだ?」
「う、うん。つか、今そこで見てただろ? ちゃんと飲んだよ」
「大丈夫? ちゃんと効いてる?」
「いや、あの……」
反射的に『いくら何でも、そんなに早く効くわけないじゃん……』と返しかけた俺だったが、立花さんの心配そうな顔を目の当たりにして、慌てて出かかった言葉を吞み込む。
そして、ぎこちなく笑みを浮かべながら、大きく頷いてみせた。
「う……うん! すげえ効いてるのが分かる! おかげで、腹もだいぶ楽になったよ、ウン!」
「……そっか!」
俺のわざとらしいリアクションに、立花さんは零れんばかりの安堵の笑みを浮かべ、ほっと胸を撫で下ろす。
「良かった……心配したよ」
「あ……そんなに俺の事を心配してくれてたんだ……」
「……え?」
俺の言葉を聞いた瞬間、立花さんの動きがピタリと止まった。
その頬がみるみるうちに真っ赤に染まり、彼女は激しくかぶりを振りながら、「ち、違うからねッ!」と叫ぶ。
「し……心配してたのは、あのハンバーグが原因でアンタが死んじゃったりしたら、あたしが殺人事件の犯人になっちゃうかもしれないって事だよ! べ……別に、アンタの事なんて全然心配してないんだからね! うぬぼれんなコノヤロー!」
「あ、そっすか」
……まあ、そうだよね。
俺は、半ば以上予想していたのと一字一句違わぬ立花さんの返事に、虚ろな笑みを浮かべた。
――と、
「あ……あのさ……」
立花さんは、俺の顔から視線を逸らすと、おずおずと口を開く。
「えと……そのさ……あの……」
「?」
言いあぐねる様子で何やらもじもじしている立花さんに違和感を覚えた俺は、訝しげに首を傾げる。
「……どうしたの? あ……また、俺なんかしちゃいまし――?」
「あの……ありがと!」
立花さんは唐突にそう叫ぶと、訊ねかけた俺に向かって深々と頭を下げた。
突然感謝の言葉を剛速球で投げつけられた俺は、思わず呆気にとられ、目をパチクリさせる。
「え? な、何? どうしたの? 何でお礼を言われたん、俺……?」
「だ、だって……食べてくれたから!」
勢いよく顔を上げた立花さんは、当惑する俺をまっすぐ見つめながら、上ずった声でそう言った。
「あたしの作った……めちゃくちゃ失敗しちゃったハンバーグ……全部食べてくれた!」
「あ……ああ~」
立花さんの言葉に、ようやく合点がいく俺。
だが、戸惑いは消えず、小刻みに首を横に振った。
「いやぁ……別に、お礼を言われるほどじゃ……」
「言うよ!」
立花さんは、激しくかぶりを振り、はにかんだような笑みを浮かべる。
「だって……嬉しかったんだもん。捨てちゃおうと思ったけど、やっぱり、初めて自分で作ったハンバーグだったから……それを、ちゃんと食べてくれてさ。本当に嬉しかったの……」
「お……おお、そっか……」
俺は、彼女の笑みになぜか顔が火照るのを感じながら、ぎこちなく頷いた。
そして、照れくささをごまかすように頭を掻きながら、たどたどしく答える。
「そ……それは良かったよ……うん」
「うん!」
彼女は俺の言葉に大きく頷き、屈託のない笑みと共に、もう一度俺に向かって感謝の言葉を伝えようとする。
「本当にありがとうね! ……えっと」
……と、そこで彼女は、なぜか言い淀んだ。
そして、少しの間だけ迷う素振りを見せ、それからきゅっと唇を噛んでから、
「そ……ソータ……」
と、少しトーンの落ちた声で、俺の名をそっと呼んだ。
「ふぁっ?」
それまでずっと『アンタ』呼ばわりをされ続け、すっかり慣れてしまっていた俺は、唐突な名前呼びに虚を衝かれ、思わず変な声を上げてしまう。
「な……何で? 何でいきなり俺を名前で……?」
「……!」
当惑混じりの俺の問いかけを聞いた瞬間、立花さんは目を大きく見開き――それから、捩じり飛ばんばかりの勢いで首を左右に振った。
「ち……違うよっ! い、今のは……そう! そ……ソーダが飲みたいって言ったのッ! ほ、ほら、さっきドラッグストアに薬を買いに行ったから、喉が渇いてんの!」
そう、上ずった声で叫んだ彼女は、ものすごい勢いで立ち上がり、
「ちょ……ちょっと、外の自販機でソーダ買ってくる!」
と言い捨てると、脱兎のような勢いで玄関から外に出て行った。
「……」
一方の俺は、疾風のように出て行った彼女の後姿を、呆然としながら見送るだけだった――。




