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第七十三訓 具合の悪い人は労わりましょう

 「……あれ?」


 俺は、ふとある事に気付いて訝しげな声を上げた。

 そして、もう一度部屋の中をきょろきょろと見回す。

 ……だが、隠れられる場所も無い狭いワンルームの部屋の中に、彼女の姿は見当たらなかった。


「ミク……立花さんが居ないみたいだけど……どこか行ったの?」


 俺は、首を傾げながらミクに尋ねる。

 すると、キッチンで洗いものをしていたミクが手を止めて、ニッコリと俺に笑いかけた。


「ああ……ルリちゃんは、ちょっと買い物に出かけてるの」

「あ……そうなんだ……」


 俺は、ミクの言葉に納得しつつ、首を傾げる。


「……って、どこに何を買いに行ったんだ? こんな時間に……」


 スマホのスリープを解除して、画面に現れた“19:39”という時刻表示を見ながら、俺は浮かんだ疑問を口にした。

 そんな俺の問いに対し、“地縛霊との対話”が中途半端に終わってしまった事を残念がりながらアクションカメラをケースに仕舞っていた藤岡が答える。


「ほら、ここに来る途中で、小さなドラッグストアがあっただろう? あそこに行ったんだよ」

「え、ドラッグストア? 何で?」

「そりゃ、もちろん――」

「ホダカさん」


 答えを言いかけた藤岡を、ミクが静かに制した。

 そして、彼に軽く首を振ると、俺に向かって意味深な口調で言う。


「ふふふ……それは、本人から聞いてみて」

「はぁ……? なんだそりゃ?」


 はぐらかすようなミクの答えに、俺は更に首を傾げた。

 と、ミクがハッとした顔をして、玄関のドアの方を指さす。


「ほら……『噂をすれば影』だよ。ルリちゃん、帰ってきたみたい」


 ミクの言葉の通り、外の方からカンカンカンというリズミカルな金属音が聞こえてきた。金属製の外階段を駆け上がってくる音だ。

 半分廃墟みたいに荒れ果てたウチのアパートの外階段をそんな勢いで昇ってきたら、足で踏み抜いちゃうんじゃないかと心配するが、幸いにもそんな俺の憂慮は杞憂に終わったようだ。

 一歩ごとにどんどん大きくなった足音が止まるや、階段のすぐ横にあるウチの部屋のボロ扉が、蝶番が吹き飛ばんばかりの勢いで開け放たれる。

 内向きに開いた扉に続いて、まるで旋風(つむじかぜ)のように入ってきたのは――左手に白いレジ袋を提げた立花さんだった。

 全速力で走ってきたのか、立花さんは肩で息を吐きながら上気した顔を藤岡の方に向け、上ずった声で叫んだ。


「ホ、ホダカ! あ……アイツ、大丈夫ッ?」

「あ……ああ」


 立花さんの剣幕に気圧された様子で、藤岡がコクコクと頷きながら、俺の事を指さした。


「本郷くんなら、さっき憑依から……あ、いや、正気を取り戻したよ」

「えっ? ……そうなの?」

「あぁ……」


 藤岡の言葉に目を丸くしている立花さんの顔と、彼女が手に提げている白いビニール袋、そして、さっき藤岡が口にした「ドラッグストア」という単語が頭の中でつながり、俺は理解した。

 立花さんは、様子がおかしくなった俺の為に、慌ててドラッグストアまで買い物に行っていたんだ――。

 それを察した俺は、気まずい思いを抱きつつ、ぎこちない笑みを浮かべながら、ひらひらと手を振ってみせる。


「あのぉ……な、なんだか、ご心配をおかけしたようで……」

「――ッ!」


 俺が口を開いた瞬間、玄関先に突っ立っていた立花さんが、その猫のような大きな目をカっと見張った。

 そして、履いていたスニーカーを乱暴に脱ぎ捨てると、無言のままズカズカ音を立てて大股で俺の方に向かって近づいてくる。


「ちょ、ちょっ! あの! す、すんません! お騒がせしましたッ!」


 その背中から真っ赤なオーラが立ち上るのを幻視した俺は、悲鳴混じりの絶叫を上げ、尻を床に付けたままじりじりと後ずさるが、すぐに背中が壁にぶつかってしまった。

 そんな俺めがけて、怖い顔でスピードを緩めないまま接近してくる立花さん。

 彼女は、背中を壁にピッタリ付けて震える俺の前で片膝をつくと、なぜか不安そうな表情を浮かべて口を開いた。


「……ねえ、本当に大丈夫?」

「……へ?」

「気持ちが悪かったり、おなかが痛かったりしない? あと……心臓が苦しかったりとか……?」

「あ……い、いや……」


 ……どうやら、立花さんは、俺の事を心底心配しているらしい。

 俺は、そんな彼女に戸惑いながら、おずおずと頷いた。


「だ、大丈夫だよ。たしかに、さっきまでボーっとしてたみたいだけど、今は平気……痛だだだだッ!」


 俺の言葉は、途中で悲鳴に変わる。喋っている最中に、立花さんが俺の頬っぺたを思い切り抓り上げたからだ。


「あ……あにするんらよ! (いら)い、(いら)いはらはふぇふぇ(やめて)……」

「……ホントだ。痛がってるって事は、ちゃんと意識が戻ってるんだね」


 俺の悲鳴混じりの抗議に、ようやく頬っぺたから指を離した立花さんは、ふうと安堵の息を吐いた――次の瞬間、手に持っていた白いレジ袋を俺のみぞおちに叩きつけた。


「ぐぶぅ――ッ!」

「――もうッ! 心配かけさせるな、このおバカッ!」


 不意の一撃で、思わず体をくの字に折り曲げて悶絶する俺に、怒気に満ちた立花さんの絶叫が浴びせかけられた。


「まったく……! だから食べるなって止めたのに、あんなハンバーグを無理に食べたりして! それで体調がおかしくなってたら世話ないでしょうが!」

「う、うぅ……。だ、だからって、みぞおちはイカンでしょ……!」


 俺はみぞおちを押さえ、胃の中身が逆流してこようとするのを懸命に堪えながら、涙で滲む目で立花さんの顔を見る。


「つ、つか、さっきから大丈夫だって言ってんじゃん。いくら何でも大げさに騒ぎ過――」


 そう言いかけて、俺は思わず言葉を失った。

 俺の事を睨みつける立花さんの大きな目から、大粒の涙が今にも零れ落ちそうになっていたからだ。


「あ……」


 その表情から、立花さんが本気で俺の事を心配してくれていた事を改めて思い知った俺は、彼女にぶつけようとしていた文句を慌てて吞み込み、その代わりに、


「ごめん……心配かけちゃって、マジでゴメン」


 と、彼女に向けて心から謝ったのだった。

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