第七十二訓 食べすぎには注意しましょう
どうやら――
立花さんのハンバーグを食べてから暫くの間、俺は意識を飛ばしていたらしい。
「――はっ!」
ようやく我に返った俺は、目を大きく見開いて、キョロキョロと周囲を見回した。
俺は意識を失う前と同じように、食卓の前に座っていたようだ。
だが、テーブルの上に並んでいた食器はきれいに片付けられており、それに気づいた俺は訝しげに首を傾げた。
「……あれ? 晩ご飯は……どこ? ここ?」
「ああ……なるほど。実に興味深い」
「……へ?」
突然、横から相槌を打つ藤岡の声が聞こえてきて、俺はビックリする。
慌てて横を見ると、えらく真剣な顔をした藤岡が、自撮り棒の先に付けた小型のアクションカメラらしきものを俺に向けている。
カメラの録画ランプが赤く点灯しているのに気付いた。
「え? な、何録画してるんですか、藤岡さん?」
状況が理解できずに混乱する俺の問いかけも聞こえぬ様子で、藤岡はメガネの奥の目を好奇心で爛々と輝かせながら訊ねてくる。
「その様子だと……あなたは、晩ご飯を食べている時に発作を起こしてお亡くなりになられたようですね」
「……はぁ?」
「だから、晩ご飯に強い執着を抱いている、と」
「ちょ? な、何を言ってるんすか……?」
「それで、晩ご飯を腹いっぱい食べたいと思うあまりに、夕食を摂っている本郷くんの体に憑依した……という事なんですね」
「ひょ、憑依……? って! ちょ、ちょっとぉっ!」
藤岡の口から出た突拍子もないワードに、俺は驚きつつ声を荒げた。
「な……何言ってんすかッ? お、俺は憑依なんかされてないっすよッ!」
「……あれ?」
絶叫した俺を見て、藤岡がキョトンとした顔をする。
「君……本郷くんかい?」
「あ……当たり前じゃないっすか!」
「さっきまで君の中に入ってた人は……帰っちゃったのかな?」
「な……何すか、『中に入ってた人』ってッ? 怖ッ! な……中に誰もいませんよッ!」
俺は、某SATSUGAI系ヤンデレヒロインの迷言のようなセリフを吐きながら、ブンブンと首を左右に激しく振った。
と、その時、
「あ、良かったぁ。元に戻ったんだね、颯大くん」
そう言って、キッチンの方から来たミクが、俺に微笑みかけてきた。
俺は、その可愛い微笑に胸が高鳴るのを感じつつ、怪訝な声で訊ねる。
「な……何だよ、『元に戻った』って……?」
「あ……やっぱり、覚えてないんだ……」
ミクは、手にした台拭きでテーブルの上を水拭きしながら、俺の事を気遣うような目で見た。
「颯大くん、ルリちゃんのハンバーグを食べてから、何となく様子がおかしかったんだよ? 何だか、心ここにあらずな感じで、虚ろな目をしながら私やルリちゃんに敬語を使ったり、いきなりメインカメラをどうのこうのとか、『こんなに嬉しい事は』みたいな、変な事をぶつぶつ言ってたり……」
「えぇ……」
ミクの言葉に、俺はひどく当惑した。
でも……そういえば、立花さんのハンバーグを食べてから我に返るまでの間に、白い機動兵器に乗った天パになった夢を見ていたような気がするようなしないような……。
そんな事をぼんやりと思い出しながら、狐につままれたような顔をしている俺に、ミクは言葉を続けた。
「だから、ホダカさんが『この部屋に居る地縛霊が、本郷くんの体に憑依したんじゃないか?』って言い出して……」
「はいぃ……?」
「それで、急遽カメラを回しつつ、君……いや、君に取り憑いた地縛霊に質問をしてたんだよ」
「いや、何でそうなるんすか……」
藤岡の言葉を聞いた俺は、思わず呆れ声を上げる。
「幽霊が俺に取り憑いてたなんて……そ、そんな事ある訳ないじゃないですか。……無いっすよね? ……無いんじゃないかな? ……無いといいな……」
俺は否定しつつも、だんだんと自信が無くなってきた。
確かに、立花さんのハンバーグを完食したあたりからの記憶がハッキリしていないのは確かだ。
もしかして……藤岡の言う通り、俺が人事不省に陥っている間に、この部屋で亡くなったというジジイの霊が俺に取り憑いていたのか……? そういえば、なんだかやたらと胸が苦しい気がする――。
「うぅ……胃がパンパンに張っていて、今にも破裂しそう……」
俺は、ぽっこりと膨れ上がった腹を押さえながら、恐怖で声を震わせる。
「こ、これはひょっとして……マジで霊に憑依された事による霊障なんじゃ――?」
「あ、それは多分、幽霊さんとかとは関係ないと思うよー?」
だが、俺の呟きを耳にしたミクが、あっさりと首を横に振った。
そして、苦笑いを浮かべながら言葉を継ぐ。
「覚えてない? 颯大くん、あの後めちゃくちゃたくさんおかずを食べてたよ。食べ過ぎて、おなかが張っちゃってるだけじゃない?」
「へっ?」
ミクの言葉に、俺は当惑の声を上げながら、服の上から腹をまさぐった。
……確かに、この膨満感は、満腹由来のものだ。
俺は、狐につままれたような顔をしながら、ミクに尋ねる。
「そ、そんなに食ってたか、俺?」
「うん、すごかったよ」
俺の問いかけに、ミクは大きく頷いた。
「明後日くらいまで食べれるようにと思って、肉じゃがを多めに作ったんだけど、颯大くんがたくさんおかわりしたから、もう全部無くなっちゃったもん」
「へっ? ま、マジでか!」
俺は驚愕して、思わず声を裏返す。
そして、ビックリした顔をしているミクに、声を上ずらせながら訊ねた。
「じゃ、じゃあ……あの肉じゃがは……もう無いの?」
「う、うん」
「マジか……」
俺は愕然として、自分の腹を見下ろす。
――あの、甘じょっぱい出汁がたっぷり染み込んだ玉ねぎと、噛むと口の中でほくほくと崩れるじゃがいもと、程よく煮込まれて柔らかい牛肉が絶品な肉じゃが。
しかも、ミクの手作り……!
そんな、どんなに豪華な高級料理も到底敵わないようなご馳走を、腹がはちきれんばかりに平らげたはずなのに――俺はその事をほとんど覚えていない……。
その代わりに、意識が飛ぶくらい俺の脳細胞に深く刻み付けられているのは……あの暗黒物質の強烈な味だ……。
そんな残酷な事実を目の当たりにした俺は、
「……」
無言で天井を仰ぎ、深く絶望するのだった。




