第七十訓 薦められたものは食べましょう
“それ”は、俺がさっき百均で買ってきたプラスチックの小さな平皿の上に載っていた。
言うまでもなく、“それ”は、立花さんが藤岡の為、腕によりをかけて作ったハンバーグ(自称)である。
……(自称)と付いている事からもお察し頂けるだろうが、その姿は、俺たちが「ハンバーグ」と聞いてパッと頭に浮かべるようなものとはかけ離れていた。
その表面は――とにかく黒い。黒すぎる。
照明の白い光を全て吸収しつくし、過剰なまでに自身の“黒”を主張するその様は、まるでブラックホールのよう。
そして、俺のところまでほんのりと漂ってくる焦げ臭い匂い……。
もはや、ハンバーグと言うより、暗黒物質という名を冠した方が相応しいのではないかと思われた……。
『それは、ハンバーグと言うにはあまりにも黒すぎた。黒く、(気が)重く、そして焦げ臭すぎた……』
俺の頭の中に、荘厳なBGM付きのナレーションが流れてくる。ベルセ〇クかよ。
――と、そんなアホみたいな事をぼんやりと考えていると、
「え、ええと……」
俺と同じように、時間停止したかのように体を硬直させて、目の前の皿に載った暗黒物質を凝視していた藤岡が、僅かに頬を引き攣らせながら、おずおずと声を上げた。
「ず……随分と念入りに焼いたんだね……」
「うん。ハンバーグって、生焼けのものを食べたら食中毒になっちゃったりするんでしょ? ホダカがおなかを壊したら大変だと思って、中身まで完全に火が通るようにじっくり焼いたの。……まあ、ちょおおっとだけやりすぎて、少しだけ焦げちゃったかもしれないけど、安心して食べて大丈夫だよ!」
(……って、ここのどこが『ちょっと』ぉ? 『少しだけ焦げちゃったかも』って、もはや焦げ目しか見えないんですけどコレえええええっ!)
――と、立花さんに対して、思わず心の中で渾身のツッコミを入れる俺。
一方の藤岡は、青ざめた顔で何かを言いかけたが、グッと堪えた様子で口を噤むと、その顔に強張った笑みを浮かべた。
「へ、へえ……そうなんだ……」
どうやら藤岡は、喉まで出かかったネガティブな言葉を口にするのを避けたらしい。正直な感想を伝えてしまって、自分の為に一生懸命“ハンバーグ”という名の消し炭を作ってくれた幼馴染の心を傷つける事の無いように。
……って、お気遣いの紳士か、この男ッ!
(悔しいけど、カッコいいじゃん……)
藤岡のイケメンな心意気に、俺は心中秘かに感服する。
と、ふとミクの顔を見ると、彼女は頬を真っ赤に染めながら、藤岡の事を潤んだ瞳で見つめていた。
……どうやら、俺と同じ事を察して、彼氏の漢っぷりに胸をトゥンクトゥンクさせているようだ。
「……」
そんな恋する少女の横顔から、俺はそっと目を逸らした。
ああ――なんだか、胸がズキズキするや……チキショウ。
と、
「ほら! 早く食べてみて!」
そんな俺の事など蚊帳の外で、立花さんは声を弾ませて藤岡の事をせっつく。
「まあ、確かにちょっと見栄えは悪いかもしれないけど、食べたら絶対に美味しいはずだからさ!」
「う……う、うん……」
立花さんに促され、藤岡は恐る恐るといった手つきで箸を皿に伸ばし、暗黒物質を細かく切り分けた。
そして、その中の一番小さな欠片を箸で摘まむと、立花さんに向かってぎこちない笑みを向ける。
「じゃあ……いただきます……」
「うん! どうぞ召し上がれ!」
期待に満ちた立花さんの声に、藤岡は覚悟を決めたように目を瞑り、気持ちを落ち着けるように息を長く吐いてから、ハンバーグを口の中に放り込んだ。
次の瞬間、彼の口の中から“ジャリッ”という、ハンバーグにあるまじき不可解な音が上がった。
途端に、彼の表情と顔色が変わる。
「……ッ! ――!」
藤岡は、慌てて口に手を当て、何とか吐き戻すのを堪えた。
そして、何度かモゴモゴと顎を動かし、口に入った手強い暗黒物質を何とか咀嚼しようと苦闘する。
だが、彼は遂に耐え切れなくなったのか、手元にあったコップをひったくるように掴んで一気に飲み干し、口中のハンバーグを一気に喉に流し込んだ。
「……」
「……」
「……」
そんな藤岡を、俺たちはただただ傍観するだけだった。
さすがの立花さんも、彼の悶絶する様子を見て、自分がどんな劇物を生み出してしまったのか悟ったらしく、青ざめた顔で絶句している。
さっきまでの穏やかな団欒の空気はどこへやら、鉛よりも重苦しい沈黙が、食卓を囲んだ俺たちを覆い尽くした。
――そんな空気の中、
藤岡が、再びハンバーグに向けて箸を伸ばす!
こ、この男……完食する気だ!
「ほ、ホダカさん!」
それを見たミクが、悲鳴にも似た声を上げて彼を止めようとするが、藤岡の箸は勢いを緩めない。
そして、箸先が二個目のハンバーグを掴もうとしたその時――、
「――ごめん、ホダカ! もういいからっ!」
という絶叫を上げた立花さんが、素早くハンバーグの乗った皿を掠め取った。
そのせいで、藤岡の箸は空を掴む。
「え……?」
「ごめんなさい……こんなひどいもの、食べさせちゃって……本当にごめん」
当惑の声を上げる藤岡に、食べかけのハンバーグの乗った皿を持った立花さんが繰り返し謝る。
彼女の顔は俯いているせいでよく見えなかったが――その声は、微かに震えていた。
それに気づいた藤岡が、ハッとした様子で、立花さんにおずおずと声をかける。
「ルリ……“ひどいもの”だなんて……全然そんな事無いよ。お前が、僕の為にわざわざ作ってくれたものなんだから――」
「無理に慰めてくれなくたっていいよッ!」
藤岡の声を遮るように、立花さんが声を荒げながら、キッと顔を上げた。
唖然としている藤岡の顔を見つめる彼女の目尻には――大粒の涙が、今にも零れ落ちんばかりに実っている……。
今にも泣き出しそうな顔をした立花さんは、大きくかぶりを振ると、無理やり拵えたような歪んだ微笑を浮かべて言った。
「だから、もういいから……。美味しくないのは分かったから……もう、無理して食べてくれなくっていいからさ……」
「ルリ……」
「……捨ててくるね! こんなの食べて、ホダカがおなかを壊しちゃったら大変だもんね……!」
「ルリ! ちょっと待てっ……」
「……っ」
立花さんは、咄嗟に制止しようと藤岡が伸ばした手から逃れるように、ハンバーグの載った皿を持ったまま、くるりと踵を返した。
そして、俺の後ろを通って、台所に向かおうとする。
そんな立花さんの動きを追った俺の目に、彼女の顔が映った。
――彼女の頬には、目から零れる一筋の涙が伝い落ちていて――
それを見た瞬間、俺は無意識のうちに手を伸ばし、気が付いたら立花さんの手から皿を取り上げていた――。




