第六十七訓 料理をしている人の邪魔になるのはやめましょう
トントントントン……
キッチンの方から、まな板に包丁が当たる軽快な音が聞こえてくる。断言してもいいが、これまでこの部屋で鳴った事が無い音だ。
……なぜなら、部屋の主である俺が、これまで料理というものをほとんどしていないから。
そのせいで、ウチの料理道具たちはまったく使われることが無く、狭いキッチンの流し台の半分を占拠する、無駄にデカいオブジェと化していた……昨日までは。
でも、今日に限っては、我が家の包丁とまな板が大活躍中である。料理道具としての本分を果たせて、彼らもさぞや嬉しいことであろう。
リビングのローテーブルの前に腰を下ろし、ボーっとそんな事を考えながら、俺が料理道具たちが奏でる小気味よいセッションに耳を傾けていると、キッチンから声が上がった。
「颯大くーん! ボウルとかある?」
「え、ええと……」
ミクの声に、俺は慌てて腰を上げながら、返す言葉を探す。
「ぼ、ボールは確か……野球の軟式球なら、クローゼットの中に――」
「いや、それ、ボールでしょうが! ボールじゃなくてボウルだよ! ボ・ウ・ル!」
急いでクローゼットの扉を開けようとする俺に、呆れ声がかけられる。ミクと一緒にキッチンで料理中の立花さんからの鋭いツッコミだ。
「えと……ボウルって、お料理で使う、丸い金属の大きなお椀みたいなのなんだけど……」
「あ、そっちか……」
立花さんとは打って変わって穏やかなミクの声に、俺はようやく勘違いに気付き、今度はキッチンに向かう。
そして、流し台の上にある収納棚から銀色の金属製ボウルを取り出した。
「……はい、これでいい?」
「うん、ありがと!」
俺からボウルを受け取ったミクは、にっこり笑ってお礼の言葉を言うと、蛇口を捻ってボウルに水を溜め、その中に皮を剝いたジャガイモを入れる。
(……うん、料理の為に髪の毛をヘアゴムで結んだミクは、いつもと違う雰囲気で可愛らしいなぁ。エプロンをして台所に立っている姿がとても似合ってて、まるで奥さんみたい――)
と、きびきびと動く彼女の姿に見とれながら鼻の下を伸ばしていた俺だったが、唐突に「邪魔!」と怒鳴られ、その場から押し退けられた。
「狭いんだから、いつまでもそんなところで突っ立ってないでよ!」
「あ……すんません」
俺とミクの間に割り込むように入ってきた立花さんが、威嚇する野良猫のような目をしてギロリと睨んでくる。
「まったく……あたしたちは料理してるんだから、ボウルって言ったらコッチのボウルに決まってるでしょうが。何で、料理に野球のボールが必要になると思うのさ?」
「いや……まあ、その、ゴメン」
「まあまあ、そこくらいにしてあげて、ルリちゃん」
立花さんに叱られ、返す言葉も無く謝る俺に、ミクが助け舟を出してくれた。
ミクの言葉に、立花さんは憮然とした顔をしながら流し台の方に向き直り、ピーラーでジャガイモの皮を剥く作業を再開する。
俺は、立花さんの追及が止んだ事に胸を撫で下ろしつつ、流し台の横にある食材に目を遣った。
「ジャガイモ……ニンジン……あと、玉ねぎか……。もしかして、今日の晩飯のおかずって、カレー?」
「うーん、惜しい!」
俺の言葉に、ミクは人差し指を交差させてバッテンを作った。
そして、にんまりと微笑みながら、俺に正解を明かす。
「今日はねぇ、肉じゃがにするつもりだよ」
「お、そうなんだ」
「まあ……確かに、使う食材はカレーと同じだから、この段階じゃ間違えちゃうのもしょうがないかもね」
そう言ったところで、ミクはハッとした表情を浮かべ、おずおずと俺に尋ねてきた。
「あれ……ひょっとして、カレーの方が良かった? カレーはこの前食べたばっかりだから、違う料理の方がいいかなって思ったんだけど……」
「あ、いやいや! 別にそんな事は無いよ!」
ミクの問いかけに、俺は慌てて首を左右に振る。
「むしろ、一人暮らしを始めてからは、肉じゃがなんてスーパーの惣菜コーナーの売れ残り以外で食ってないからさ! めっちゃ食いたいよ!」
「そっか……良かったぁ」
俺の答えを聞いたミクは、安堵の表情を浮かべた。
と、今度はリビングに向かって声をかける。
「……ホダカさんも肉じゃがで良かったですか?」
「ああ、もちろんさ」
部屋の隅で、持参してきたらしいビデオカメラの三脚の角度調整をしていた藤岡は、作業する手を休めて顔を上げると、穏やかな微笑みを浮かべながら頷いた。
「未来ちゃんの作ってくれるものだったら、何でも大歓迎さ。夕ご飯がとっても楽しみだよ」
「うふふ、がんばります」
藤岡の言葉に、ポッと頬を染めるミク。
それを見た俺は、思わず口をへの字に曲げる。
と、その時、
「――ねえっ、アンタ!」
「「は、はいっ?」」
苛立ちを含んだ棘のある呼びかけに、俺とミクは驚いた声で返事をした。
すると、荒げた声を出した立花さんは、ミクの方に向かってブンブンとかぶりを振る。
「あ……ご、ごめんなさい! 今のはミクさんにじゃなくって、そこでナマケモノみたいにぬぼーっとしてる奴に向けてのアレだから!」
「あ……そうなんだ。ビックリしちゃった」
「……って、誰がナマケモノだよ!」
立花さんの言葉を聞いて、ミクは安堵し、俺は抗議の声を上げた。
すると、立花さんはキッチンの横に据え付けられた小さな食器棚を指さし、険しい目で俺の事を睨みつける。
「んな事よりも! 何よコレ!」
「何って……見た目通りの食器棚だけど……」
「ンな事ぁ分かってるよ! あたしが言ってるのはその中身!」
俺の答えを聞いた立花さんは、更に激昂しながら食器棚のガラス戸の向こうに指を突き付けた。
「全然食器が少ないじゃん! おかずを盛りつけるお皿も、ご飯を盛るお茶碗も! これで、どうやってご飯を食べろって言うのさ!」
「あ、確かに……」
立花さんに言われて、俺は初めて気が付いた。
確かに、ウチには大きな平皿も茶碗も一枚ずつしか無い……ひとり暮らしだから当然だけど。
「『あ、確かに』じゃないよ! どうするのさ、コレ?」
「え、えーと……ひ、一人ずつ順番に……とか?」
「おバカ!」
おずおずと答えた俺の事を怒鳴りつけた立花さんは、ビシッと玄関を指さした。
「今すぐ買ってきて! 近くに百均のお店あったでしょ? そこのでいいから!」
「えぇ……今から? 俺が?」
「当然でしょっ!」
渋る俺を立花さんが一喝する。
「あたしとミクさんは料理中だから手が離せないの。暇そうにしてるのは、アンタだけだよ!」
「も、もう一人いるじゃん……あっちに」
「ほ、ホダカはいいの! ……なんか忙しそうだから!」
立花さんは、リビングの方をチラリと見ながら言った。
俺も彼女の視線の先に目を遣り、忙しげにカメラの動作チェックや配線作業をしているらしい藤岡の背中を見て、諦めて頷く。
「分かったよ。確かに、食器が無いとマズいもんな。じゃあ、ちょっと行ってくるよ」
「あ、颯大くん! お箸とお味噌汁のお椀もお願いしていい? 三つずつ」
「あ、うん。了解」
ミクの声に頷いた俺は、尻ポケットを触って財布が入っている事を確認し、そのまま玄関に向かった。
そして、急いで靴を履くと外に出ると、オレンジから藍色に移り変わりつつある東京の狭い空が目に入る。
「じゃあ、行ってきまーす」
と言って、そのまま後ろ手でドアを閉めた俺の脳裏に、料理をしているミクの隣で、敵愾心を剝き出しにしている立花さんの姿が浮かんだ。
「……大丈夫かな?」
と、ミクと立花さんから目を離す事を一瞬だけ憂慮した俺だったが、
「……まあ、平気だろう、さすがに。藤岡もいるしな……」
と、自分を納得させると、さっき通り抜けた商店街の一角にある百均ショップに急いで向かうのであった――。




