第六十六訓 他人の部屋で騒ぐのはやめましょう
ようやく目的地である築四十年ボロアパートに到着した俺たちは、段を踏むたびにギシギシと嫌な音を立てる外階段を上がった。
先頭で階段を上がった俺は、二階の一番手前のドアの前に立ち、自分の後ろをついてきた三人の方に振り向く。
「ええと……着きました。ここが、俺の家っす」
「へぇ……」
俺の後ろのドアに目を遣りながら、藤岡が感嘆とも慨嘆ともつかない声を漏らした。
「ここか……」
「ここがアンタの……例の事故物件なんだね」
「ちょ……」
俺は、歯に衣着せぬ立花さんに思わず声を上げる。
「なんで、わざわざ言い直したんだよ……」
「え? だって、事故物件なのは事実でしょ?」
俺の抗議をバッサリと切り捨てた立花さんは、剥げた塗装を雑に上塗りしたせいで、心なしか表面がデコボコしているドアにジト目を向けた。
「ていうか、そもそもあたしたちは“事故物件”に用があって来たんだから。それがたまたまアンタの家だったってだけでしょ?」
「あ……私はそうでもないよ!」
立花さんの言葉に、おずおずと首を横に振ったのはミクだった。
「私がここに来たのは、ここが事故物件だからっていうよりは、颯大くんの家だからっていう理由の方が大きいから……。颯大くんの家の中に入った事って、お引越しの手伝いに来た時しか無かったし……」
「ミク……!」
ミクの言葉に、俺の胸はトゥンクと鳴る。
が、ミクは「あ……でも……」と、俺にだけ聞こえるような小声で言葉を続けた。
「い……一番大きい理由は、ホダカさんといっしょに泊まれるって事だったり……あっ、い、今のはやっぱり無しで!」
「ミク……」
顔を真っ赤にして恥ずかしがるミクを前に、絶句し、がくりと肩を落とす俺。
そんなノロケ……聞きたくなかった……。
「……どうしたんだい、本郷くん?」
「あ、いや……何でもないっす。……じゃあ、開けますよ……」
俺の気持ちも知らないで、心配げな顔で声をかけてくる藤岡に軽く手を振りながら、俺はそう答えると、ポケットから家の鍵を取り出し、鍵穴に挿し込んだ。
そのまま横に捻って、ガチンという安っぽい音を立てて錠が開く。
「……どうぞ。クソ狭い家でビックリするかもしれませんけど」
と、俺は耳障りな軋み音を上げるドアを引き開けながら、三人に向かって言った。
「お邪魔しまーす」
「失礼します」
「……」
俺の声に促され、三人は玄関の中に入り、俺はその後に続いて部屋に入ると、後ろ手でドアを閉めた。
「へぇ~。この前来た時より、ずいぶん変わったねぇ」
と、玄関でショートブーツを脱ぎながら部屋の中を見回したミクが、声を弾ませる。
ドアを閉めた狭い玄関で、ほとんどミクと密着しそうな距離に立っている俺は、思わずドギマギしながら、努めて平静を装って答えた。
「そ、そりゃ変わるよ。だって、お前が前にこの部屋の中を見た時は、まだ段ボールの荷解きもしてなかったんだからさ……」
「あはは、そういえばそうだねぇ」
ミクは、俺の答えに苦笑しながら、興味深げにキッチンの方へ目を向けている。
と、その時、
「いや、せっまいなぁ!」
「あ、ちょ、ちょっと!」
部屋の奥から聞こえてきた呆れ声に、俺は声を上ずらせた。
そして、慌てて玄関で靴を脱ぎ捨てると、急いでリビングの方へ向かう。
「か、勝手に奥に入らないでよ! 俺にだってプライバシーってもんがあるんだから!」
「何言ってんのさ! 奥に行かないと後がつかえて入れないんだからしょうがないじゃん。不可抗力よ不可抗力!」
咎める俺に、立花さんは仏頂面で言い応えした。
そして、再び部屋の奥の方にぐるりと首を巡らせ、そっけなく言う。
「ふぅん……思ったよりも片付いてるじゃん……」
「そりゃあね、来客が来るんだから、片付けもするさ」
「……ちぇっ」
「ちょ、なんで舌打ちぃっ? ……っていうか、なんでそんなに不満そうなんだよ」
「ソンナコトナイヨー。ただ、せっかくのお部屋訪問なのに、イジれなくってつまんないなぁって」
「……つまんなくて悪うござんしたね」
そんなやり取りをしながら、俺は内心で胸を撫で下ろしていた。
良かった……。先週から必死で部屋の片付けと掃除を徹底して、一部の隙も無いほどに綺麗にしておいて、本当に良かった。
万が一にでも、この娘に“ビフォー”のゴミ部屋を見られたら、何を言われたか分かったものじゃない……。
「……って! ちょ、今度は何する気だよ!」
だが、俺は安堵の息を吐く暇もなく、おもむろに屈み込んでベッドの下を覗き込んだ立花さんに叫び咎める。
すると彼女は横這いになると、ベッドの奥に手を伸ばし、俺に背を向けながら答えた。
「そりゃあ……大抵の男の子って、ベッドの下に宝物を隠してるもんなんでしょ? せっかくだから、宝探しでもしようと思って」
「な、何を考えてるんだ、君は! つか、そんなところに潜り込んだって“ひとつなぎの大秘宝”は無いってばぁ!」
俺は、ベッドの前でモゾモゾと動いている、白いショートパンツに包まれたお尻とそこから伸びたスラリとした白い脚を前に、目のやり場に困りながら声を荒げる。
そして、藁にも縋る思いで、彼女を抑止できる唯一の存在に向かって懇願した。
「ちょ、ちょっと、藤岡さん! アンタの幼馴染、何とかして下さい!」
「――え? ああ、ごめんごめん」
それまで、俺たちの騒ぎにも我関せずといった様子で、部屋の壁や天井を興味津々で観察していた藤岡が、俺の求めに応じて振り返った。
そして、俺のベッドの下に上半身を潜り込ませてモゾモゾと蠢いている立花さんの姿を見ると、苦笑いを浮かべる。
「……まったく。他人の部屋で何をしているんだい、ルリは」
藤岡はそう言うや、ベッドの下から突き出ている立花さんの脚をむんずと掴んで、そのまま彼女の体を引っ張り出した。
「へ? へ――?」
突然力づくでベッドから引きずり出された立花さんは、一瞬状況が理解できない様子で、その大きな瞳をぱちくりと瞬かせる。
が、藤岡の手が自分の剝き出しの脚を無造作に掴んでいる事に気が付くと、たちまちその顔を茹でダコのように真っ赤に染めた。
「ほ、ホホホホホホホダカあッ? な、なななななにをしててる……の?」
「『何をしているの?』は、僕……いや、本郷くんのセリフだよ」
テンパりまくる立花さんに、藤岡は優しくもキッパリとした声で、諭すように言う。
「駄目だよ、ルリ。いくら本郷くんが優しくても、そうズケズケと部屋の中を荒らしたり、プライベートを暴こうとしたりしちゃいけないんだよ」
「う……うん……」
藤岡の言葉に、さっきまでの威勢が嘘のようにシュンとする立花さん。
彼女は無言で立ち上がると、俺に向かってチョコンと頭を下げた。
「えと……はしゃいで騒いで……ごめ……コメヤサイ」
「え? あ、ああ……うん」
殊勝な様子で頭を(申し訳程度だけど)下げてきた立花さんに面食らいながら、俺は慌てて首を左右に振る。
「あの……分かったから、もういいよ。……つか、俺の方こそ、ちょっと大人げなかったかも。……ごめん」
彼女に向かってそう謝り返しながらも、俺は満更でもない気持ちだった。
(……案外、素直に謝ってくれたな。いつも、このくらい素直ならいいんだけど……)
そう思いながら、俺はさっきの立花さんの謝罪の言葉を思い出す。
『……ごめ……コメヤサイ』
『こめやさい』
『米野菜』
…………あれ? 謝ってなくね?




