第五十六訓 講義の始まる五分前には着席しましょう
その翌日。
実家に一泊した俺は、朝の電車で大学へ直行した。
元々水曜日は講義の関係で、登校するのは他の日よりも遅い三限目からである。
だから、赤発条のアパートにいれば、たっぷりと朝寝坊を堪能できるのだが、大学からずっと離れた場所にある実家からだと、結局一限目から講義が入っている日と同じ時間に起きなければならなかった。
そのせいで、朝から少し損した気分を味わう俺……。
その上、いつもと違う経路で、かつ世界有数の混雑率を誇る路線に乗ったので、俺は大学に着く頃には既にヘトヘトになってしまっていた。
更に悪い事に、乗ったバスが渋滞に巻き込まれたせいで、俺が講義の行なわれる三号棟に着いたのは、三限目の始業一分前だった。
「あ……す、スンマセン……」
廊下を猛ダッシュして、本当にギリギリのタイミングで講義室に飛び込んだ俺は、既に着席していた学生たちの注目を一身に浴び、肩で息を吐きながら身を縮こまらせて、おずおずと頭を下げる。
そして、空席が無いか見回した。
だが、必修科目にもかかわらず、出席するだけで単位が貰える事から、学生たちから秘かに『ボーナスステージ』と呼ばれているこの講義は大変な人気で、既に席はほとんど埋まっていた。
それでも、右側の並びの後ろから四列目の席が一席だけ空いているのを見つけた俺は、急いでその席に向かう。
「あ……スミマセン。通してもらっていいっスか? あ、どうも……」
どいてくれた学生たちに卑屈な引き攣り愛想笑いを向けつつ、手刀を切りながら通った俺は、ようやくの思いで目当ての空席に辿り着いた。
「ふぅ……やれやれだぜ」
木製の椅子に腰を下ろした俺は、安堵と疲弊が入り混じった溜息を吐く。
――と、その時、
「……やあ、本郷氏。危なかったねぇ」
「……げ」
唐突にかけられた声に驚き、隣に目を向けた俺は、満面の笑みを浮かべている一文字の脂ぎった顔が視界に入るや、思わず頬を引き攣らせた。
「……? どうしたんだい、本郷氏? ホビットが石化魔法をかけられたような顔をして?」
「……いや、そこは普通に『鳩が豆鉄砲を食ったような顔』でいいだろうが。微妙に分かりづれえよ」
俺は、憮然とした顔をして、カバンの中からテキストとノートと暇潰し用のマンガを取り出しながら言う。
「つか……、何でお前が俺の隣に座ってるんだよ?」
「お言葉だが、それは因果が逆だね」
何が嬉しいのか、ニタニタと粘っこい笑いを浮かべながら一文字は答えた。
「先にこの席に座っていたのは、ボクの方。君の方が、勝手にボクの席の隣にやって来たんだよ。だから、ボクにそう尋ねるのはお門違いさ」
「……」
一文字にやり込められた俺は、思わず口をへの字に曲げる。
そんな俺に、一文字は更に口を開きかけたが、ちょうどそのタイミングで、この講義の講師である宝生先生が、いつも通りの三分遅れで講義室に入ってきた。
そのせいで、彼の追及は一旦中断する。
――だが、教壇の椅子にどっかと腰を下ろした宝生先生が、くぐもった声でブツブツと呟くように呪文を唱え……もとい、テキスト解説をし始めるや、すぐに一文字は俺の顔を覗き込みながら問いかけてきた。
「ところで、どうしたんだい? 三限目なのに、家が近い君がこんなギリギリに来るなんて珍しいじゃないか?」
「…………」
一瞬、講義に聞き入るフリをして一文字の問いかけを無視しようかとも考えたが、コイツの性格から考えて、そんな事などお構いなしに延々を尋ね続けてくるに違いない……。
そんな鬱陶しい未来が容易に想像できたので、無視作戦を早々に諦めた俺は、小さく溜息を吐いてから、彼の問いに答えてやった。
「……別に大した事じゃねえよ。昨日は実家に帰ってて、今朝はそこから直行してきたから、いつもよりも余計に時間がかかったってだけだよ」
「昨日、実家に? 何で平日ど真ん中の火曜日に帰ったんだい? 今日は講義もあるっていうのに」
「それは……」
訝しげな顔をしながら、一文字が矢継ぎ早に繰り出してくる質問に、俺は正直に答えるべきか躊躇する。
……そう、『一人暮らしをしているアパートが事故物件で、変なラップ音とかも鳴るから、怖くて実家に避難してました』と。
「ええと……」
はじめは(そんなこっ恥ずかしい事、他人なんかに言えねえ! ……特に一文字には!)という思いが優勢で、適当な事を言ってごまかそうと思った俺だったが、ふと(……いや、逆に、一文字に相談してみるのもアリなんじゃないか?)と思い直した。
ぶっちゃけ、今俺が直面している『俺、幽霊とルームシェアしてるかもしれない問題』は、俺ひとりで抱え込むには重た過ぎて、昨日から『誰かに相談して楽になりたい』という衝動がムクムクと大きくなっている。
とはいえ、怖がりのミクはもちろん、心配性の母さんや、幽霊の存在なんか小指の先ほども信じていない根っからの現実主義者である父さんに相談する事なんて出来なかった。
……だが、一文字なら……?
何となくだが、アニメや漫画の沼にどっぷりと浸かっている分、超常現象や心霊現象にも造詣と理解が深いのではないだろうか? 意外と、二次元創作物由来で、除霊や魔除けに有用な知識を持っているかもしれない……。
それに、俺が幽霊にビビってる事を知られたとしても、友達らしい友達がいない一文字なら、その情報が他に拡散する恐れはゼロだと考えて良い……。
「……良し」
そう結論付けた俺は、コホンと咳払いをすると、興味津々といった表情で待っている一文字に向けて口を開く。
「実はさ……出るみたいなんだよ、ウチ」
「出る……?」
俺の言葉を聞いた一文字が、訝しげな顔をして訊き返した。
「出るって……何がだい?」
「そ、そりゃあ……アレだよ、アレ……“頭文字G”」
“幽霊”という単語を口に出したくなかった俺は、咄嗟に“GHOST”の頭文字で言い表す。
それを聞いた途端、目を見開いた一文字は、納得したかのように大きく頷いた。
「あぁ……なるほど。君の家にも出たんだね、“G”が」
「……も?」
一文字の言葉に引っかかり、俺は思わず当惑の声を上げる。
「“君の家にも”って……お前ん家にも出るのか、G?」
「ああ、もちろん」
「も、もちろんッ?」
俺は、一文字があっさりと頷いた事に仰天した。




