第五十二訓 お風呂にはゆっくり浸かりましょう
「お風呂上がったよー」
俺は、急いでドライヤーをかけたせいで半乾きのままの髪の毛を、肩にかけたバスタオルで拭きながら台所に入ると、ご飯支度をしている母さんとミクに声をかけた。
「あ、そうちゃん、ちょうどご飯できたよー」
テーブルの上に箸やコップを並べていたミクが振り返り、明るい声を上げながら、俺に笑顔を向ける。
その言葉通り、コンロから漂ってきたカレーと唐揚げのいい匂いが、俺の鼻をくすぐった。
俺は、食欲を誘う香りを嗅いだ途端に口の中で噴き出した唾を飲み込みながら、ぐうぐうと切ない音を鳴らし始めた腹を押さえる。
「うー、すんげえ腹減ったよ。早く食おうぜ」
「早く食べたいなら、ご飯よそうの手伝ってよ、颯くん」
「あ、了解」
母さんに促され、俺は炊飯器の蓋を開けると、ほかほかと白い湯気を立てる炊き立てのご飯をカレー皿によそった。
「ほい」
「はい、ありがとー」
俺からカレー皿を受け取った母さんは、盛りつけられたご飯に出来立てのカレーをたっぷりと注ぎながら、ちょこんと首を傾げる。
「そういえば、随分とゆっくりしてたわね。いつもはカラスの行水なのに」
「え……?」
「もう少し上がるのが遅かったら、様子を見に行こうかなって話してたのよ。ね、ミクちゃん?」
「そーそー!」
母さんの言葉に、ミクも大きく頷き、目を大きく見開きながら言葉を継いだ。
「ひょっとしたら、お風呂の中で溺れちゃってるんじゃないかなーって、そうちゃんの事をちょっと心配してたんだよ」
「え、えぇっ?」
『俺の事を心配していた』というミクの言葉に思わず心がときめくのを感じながら、俺はブンブンと首を横に振る。
「いやいや、全然溺れてなんかないよ。たかが長風呂してただけで大袈裟だなぁ」
「でも、いつもは、ものの十五分も入ってないじゃない? なのに、今日は四十分近く出てこないんだもん。そりゃ不安になっちゃうよ」
ふたりの“心配”を笑い飛ばす俺。
すると、母さんが俺に向けて訝しげな目を向けながら尋ねてくる。
「っていうか、じゃあ何で、今日に限ってそんなに長風呂だったのよ?」
「へっ? い、いや、何でって言われても……」
母さんの問いかけに、俺は口ごもった。
……もちろん、俺も風呂から早く上がりたかった。
母さんの言う通り、元々俺は長風呂が好きじゃないし、母さんがミクから色々といらん事を訊き出さないように、一刻も早く台所に戻って牽制もしなきゃならなかった。
……でも、ミクが脱衣所に来た事で、色々と盛り上がってしまったモノを落ち着かせるのに、思いの外時間がかかってしまったのだ。
――それが、俺が長風呂してしまった本当の理由なのだが、母さんどころかミクもいる前で、とてもそんな事は言えない……。
「……そ、そりゃあ……久しぶりの広い風呂で、のんびりし過ぎたというか何というか……そういう感じだよ。ほら……俺のアパートの風呂、クソ狭いユニットバスしか付いてないし」
俺は、微妙に目を逸らしつつ、そう答えた。まあ、些かとってつけた感は否めないが、全くの嘘という訳でも無いしな……。
「ふーん」
「あ、そうだったんだね~」
だが幸い、俺の苦しい説明にもふたりは納得してくれたようだ。
俺はホッと胸を撫で下ろしつつ、さりげなく話を逸らそうと、殊更に明るい声でふたりに言った。
「ま、まあ、そんな事はいいから、早く飯食おう! 俺、メチャクチャ腹が減っちゃってんだよ~」
「あ、ゴメンゴメン」
俺の催促に、母さんはハッとした顔をして頷く。
そして、冷蔵庫を指さすと、ミクに言った。
「じゃあ、ミクちゃん。冷蔵庫の上の段にサラダが入ってるから、出してくれる?」
「あ、はーい!」
「あ、ついでに、麦茶もお願いしていいかしら? 真ん中の引き出しの中に入ってるから」
「はーい、了解でーす」
母さんの言葉に気安く応じたミクが、冷蔵庫の方に行って、冷蔵室の扉を開ける。
……と、その時、母さんが俺の方にスッと近付いた。
そして、俺の耳元に顔を寄せ、ミクには聞こえぬボリュームの声で囁きかける。
「颯くん……さっき、ミクちゃんから聞いたわよ」
「な……何を?」
俺は、内心でドキリとしながら、表面上は平静を装って答えた。
母さんは、そんな俺の横顔をジト目で見ると、言葉を続ける。
「……ミクちゃん、彼氏が出来たんだって?」
「う……」
母さんの囁きを聞いた俺は、思わず(遅かったか……)と顔を顰める。
どうやら、俺が風呂場で必死に心頭滅却して明鏡止水の境地に到ろうと悪戦苦闘している間に、懸念していた最悪の事態は起こってしまっていたようだ……。
俺は、風呂場で無為に費やしてしまった時間のロスを嘆くが、知られてしまったものはしょうがないと観念し、しぶしぶ頷く。
「……うん、みたいだね」
「……はぁ」
俺の答えを聞いた母さんは、小さく息を吐くと、俺の頭をちょこんと小突いた。
「いつまでもモタモタしてるからだよ、バカね」
「……」
その言葉に、俺は憮然とした表情を浮かべて沈黙しつつ、心の中で(マジで、それな……)と深く同意するのだった……。




