第五十一訓 ラッキースケベを期待するのはやめましょう
「ふぅ~、極楽極楽……」
と、温かいお湯をたっぷりと湛えた浴槽の中へと身を沈めた俺は、思わず定番のセリフを漏らした。
ひとり暮らししてるアパートには小さなユニットバスしか無いので、のびのびと足を伸ばせるちゃんとした風呂に入るのも久しぶりだ。
「ふぃ~……生き返るぅ……」
俺は、じんわりと身体に染み入るお湯の温かさに恍惚としながら、実家の風呂の天井を見上げた。
「何もしないでも、温かいご飯と風呂が用意されてるって……いいなぁ」
ひとり暮らしを始めて改めて感じる『実家の有難み』というものを、しみじみと噛みしめる俺。
……だが、そんなホンワカした心の中で、やにわに暗雲が立ち込める。
「……大丈夫かな?」
そう呟いて表情を曇らせた俺は、不安げに壁の方に目を移した。
壁を三枚ほど隔てた台所では、母さんとミクがいっしょに晩御飯の準備をしている最中だ。
腹ペコだった俺は、すぐにでも晩御飯を食べたかったのだが、母さんに「まだ少しかかるから、先にお風呂に入ってきなさい」と促され、半ば強引に風呂場へと追いやられたのだ。
まあ、実を言うと、昨夜は部屋の中で鳴るラップ音にビビりまくってシャワーも浴びずに寝た(寝れなかったけど)というのもあって、母さんの指示を強く拒否できなかった。
せっかくミクが来ているのに、俺の身体が汗臭かったりしたら大変だしね……。
……でも、自分が風呂に入っている間、母さんとミクをふたりきりにさせている今の状況に対し、俺は少し不安を覚えていた。
「何か、余計な事を言ったりしてないだろうな……」
気にかかるのは、俺が風呂に入る直前、チラリと目に入った母さんの顔だ。
明らかに、何かを期待しているように目を輝かせていた。
あの表情は知ってる。
……そう。芸能人のスキャンダルを報じるワイドショーを観ている時の顔だ。
「……ヤバい、かな?」
さっきの会話の流れだと、母さんは確実に、三日前の出来事についてミクから根掘り葉掘り聞き出そうとするだろう。
それに対して、ミクは特に何も考えずに、あの日の出来事を正直に話すだろう。
当然、そうなれば藤岡穂高――ミクの彼氏の話題も出るに違いない。
その事を、薄々俺のミクへの気持ちを悟っているっぽい母さんが知ったら……絶対にからかいのネタにされる!
「……いや、のんびり風呂なんかに入ってる暇なんかないわ、コレ!」
今後、事ある毎に母さんにイジられる未来を幻視した俺は、浸かっていた湯舟から勢いよく立ち上がる。
何としても、母さんが藤岡の存在を知る事は避けねばならない――充満する白い湯気の中で、そう俺は決意した。
(その為には、ミクと母さんの会話に割って入って、話題を逸らし続けないと――!)
ならば、今すぐに風呂を出なければならない――そう決断した俺は、素早く風呂場の扉に手をかける。
――と、その時、
「そうちゃーん、お湯加減はどうですかー?」
「ふ、ファ――ッ?」
唐突に扉の向こうから聞こえてきたミクの声に仰天した俺は、慌てて湯舟の中にもう一度身を沈めた。
俺が上げた奇声と、けたたましいお湯の音に、ミクはビックリした声を上げる。
「あ、あれ? 変な声出して、どうしたの?」
「ふぇっ? あ、い、いや、何でもな――」
「もしかして、溺れちゃってるの? だ、大丈夫――」
「わあああっ! 大丈夫だから! は、入ってくるなぁ! ミクさんのエッチぃぃぃっ!」
慌てた様子で風呂の扉を開けようとするミクを、咄嗟に胸と股間を手で覆い隠しながら必死に制止する俺。狼狽のあまり、最後はしず〇ちゃんみたいになってしまった……。
幸い、そんな俺の懇願はミクに通じたようで、「あ、そっか」という声が聞こえると、ドアの取っ手から手を離した気配がした。
ホッと安堵の息を吐いた俺は、一糸纏わぬ姿の自分とドア一枚を隔てた脱衣所にミクがいる事を意識して高鳴る左胸を押さえながら、何とか平静を装った声でドアの向こう側に向けて声をかける。
「な……何だよ? どうかしたか?」
「あ、いや、大した事じゃないんだけど、真里さんに『ちょっとお湯加減を聞いてきて』って頼まれたから」
「あんのババア……」
ミクの答えを聞いた俺は、思わず顔を顰めた。
(いや……絶対わざとだろ、母さんめ……)
今頃、母さんは台所でニヤニヤしてるんだろうな。年頃の幼馴染が突然風呂場に入ってくる、ラブコメやギャルゲーでお馴染みのハプニングに直面した息子が大いに狼狽している様を思い浮かべながら……。
……まあ、正直ちょっと……ほんのちょっぴり期待しないでもなくもなかったけど……。「いっしょに入っていい?」とか言いながら、タオルを巻いたミクが、仄かに頬を赤らめながら風呂場に入ってくるラッキースケベ的なイベントが起こる事を――。
「……って、な、何考えとんねん、俺ぇッ!」
「えっ? な、何が?」
とんでもない妄想を脳裏に浮かべた自分自身を怒鳴りつけた俺の声にビックリしたらしきミク。
「ほ、ホントに大丈夫なの、そうちゃん?」
「あ……い、いや! 何でもないっす! 大丈夫大丈夫!」
俺の様子を心配したミクが再びドアを開けようとするのを慌てて止めた俺は、大きく深呼吸して、何とか気持ちとある部分を落ち着かせると、ドアの向こうに向かって答える。
「……え、ええと、たしか……湯加減だっけ? あー、ハイハイ。丁度いい湯加減ですよー」
「そっか! 良かった~」
俺の答えを聞いたミクは、こっちの気も知らないで、無邪気な声を上げた。
「じゃあ、バスタオル置いておくね。『今日干したばっかりのやつでフカフカだから、こっちの方を使いなさい』って、真里さんが」
「お、おう、分かった」
俺はミクの声に上ずった声で答える。
「今、唐揚げ作ってて、出来上がるまではもう少しかかるから、ゆっくり温まってね」
「う、うん、ありがと」
ミクの言葉に頷きながら返事する俺の顔は、溶けかけたアイスのようにだらしなく緩んでいた。
うん……なんか、新婚夫婦が交わす会話みたいで……イイね!
「……ふへへ」
「ん? なんか言った?」
「あ……何でもない! お気になさらず!」
思わず漏れた締まりのない笑い声をミクに聞き留められた俺は、慌てて声を上げる。また変に心配されてドアを開けようとされたら大変だ。
そんな俺の返事に、ミクは「そっかー」と返すと、
「じゃ、ごゆっくり~」
と言い置いて、脱衣所から出て行った。
「……ふぅ~」
耳を澄ましてミクがいなくなったのを確かめた俺は、湯舟に顎まで浸かりながら、大きく息を吐く。
その息の中には、『ミクが風呂場まで入って来なくてよかった』という安堵と、ラッキースケベ的なイベントが起きなかった事に対する落胆が9:1……いや、8:2……7:3くらいの割合で入り混じっていたのだった……。




