第五十訓 寝過ごしには注意しましょう
「ふわあ……」
俺は、寝転がったままで大きなアクビをした。
「あ、あれ……?」
そして、周囲を見回し、自分が寝ていたのがいつものアパートでない事にビックリする。
「俺……なんで? ……って、あ、そっか……」
一瞬戸惑ったが、すぐに寝る前の事を思い出し、ホッと息を吐く。
「そういえば……実家に帰って来てたんだっけか。それで、そのまま仮眠を取って……って!」
そこまで言って、部屋の中が薄暗くなっている事にようやく気付いた俺は、慌ててポケットの中に入れていたスマホを取り出し、液晶画面を点けた。
そして、ホーム画面に表示された現在時刻を確認して驚く。
「うわ……もう七時近いじゃんかよ。つー事は、四時間くらい寝ちゃってたのか、俺……」
ほんの三十分くらいだけの仮眠のつもりだったのだが、思いの外ガチ寝してしまったようだ。
よっぽど深い眠りだったのだろう。夢を見た覚えも一切無い。
だが、そのおかげで、三日ほど不眠続きだったせいでボンヤリしていた頭の中が、ビックリするほどスッキリしているのが分かった。
「ふわああ……良く寝たなぁ……」
俺はベッドの上で起き上がると、もう一度大きなアクビをしながら、両腕を思い切り上に伸ばす。
――と、その時、
……ぐぅぅぅ~
俺の腹から、デスメタルバンドのベースのように低い重低音が鳴り、それと同時に耐えがたい空腹感を覚えた。
「うわぁ、メチャクチャ腹減った……」
俺は狂暴なまでの自己主張を続ける腹の虫を宥めるようにお腹を擦りながら、身体にかかっていた掛け布団をはねのけ、立ち上がった。
そして、真っ暗な部屋の中、寝起きのせいで覚束ない足取りでドアの方へ向かう。
もしも、こんな所を他人に見られたりしたら、ゾンビかなんかだと間違われそうだ……。
と、そんな事を考えながらドアノブに手をかけた時、ふとある疑問が浮かんだ。
(……あれ? そういえば、俺、寝る前にちゃんと布団の中に入ったっけか……?)
思い返せば、布団の上に倒れ込んで、そのまま意識を失うように眠りこけてしまったような……?
それなのに、起きた時にはきちんと布団をかけていた事に少しだけ引っかかったが、
――ぐぐぐぐぐぅ~っ!
腹の虫が「そんな事はどうでもいいから、とにかく早く飯を食わせろ!」と、さっきよりも大きな重低音を鳴り響かせた。
「あーハイハイ。すぐに向かいますって……」
俺は思考を一時中断して、腹の虫にせっつかれるように、そそくさと部屋を出て、階段を下りる。
すると、一階の方から、スパイシーで食欲を誘う魅力的な香りが漂ってきて、俺の鼻をくすぐった。
「……お! 今日の晩御飯はカレーかぁ」
カレーは、俺の好きなメニューベスト3に入る料理だ。
特に、俺の家のカレーは、『ドコイチ』などのカレーチェーン店にも負けないくらいに美味いと思う。――と言っても、使っているのは市販のカレールウの筈なんだけど。何か特別な隠し味でも使ってるのかな……?
そんな事を考えながら一階に下りた俺は、アクビを噛み殺しながら、何の気なしに台所のドアを開けた。
「ふわぁぁ……母さん、今日のメシってカレー? もう出来てんの?」
「……あ! そうちゃん、やっと起きたー!」
ドアを開けた俺を迎えたのは、一際かぐわしいカレーのいい匂いと、呆れたような喜ぶような声だった。
「もー、全然起きてこないから心配しちゃったよー」
「え? あ、ああ、ゴメン。少し仮眠するつもりが、ガチ寝しちゃったよ」
「真里さーん! そうちゃん起きましたー!」
「あ、ホント―?」
「……へ?」
俺は寝ぼけた目を擦りながら、ふと違和感を覚えて、首を傾げた。
家にいるのは俺と母さんだけの筈なのに……なんか、ひとり多い気がする。
それに……俺の事を“そうちゃん”って呼ぶのは――。
その事に思い当たった瞬間、俺の眠気と空腹感はきれいさっぱり吹っ飛んだ。
「……えッ?」
俺は思わず目を大きく見開いて、台所の前に並んで立っているうちのひとりの顔を凝視する。
そして、彼女が誰なのか分かった瞬間、あんぐりと口を開ける。
「お……おまっ……! み、ミ――!」
「……どうしたの、そうちゃん? そんなにビックリして?」
驚愕する俺の顔を見返して、フリルの付いたエプロンをしたミクが、キョトンとした顔で首を傾げた。
そんな彼女に向けて、俺は声を上ずらせる。
「い、いやいや! そりゃビックリするだろ! な……何でお前が俺ん家にいるんだよッ?」
「え……? 別にそんな驚く事じゃないでしょ?」
ミクは苦笑しながら答えた。
「そうちゃん家とウチはご近所さんなんだから。真里さんから『そうちゃんが帰って来てる』って聞いて、遊びに来たんだよー」
「ちょっ! か、母さんッ?」
俺は、ミクの横でカレーの入った鍋をかき混ぜている母さんに向けて叫ぶ。
「な、何でミクに教えたんだよっ! 俺が帰って来てるって!」
「えー? いいじゃん別に~」
母さんは、涼しい顔で答えた。
「颯くんとミクちゃんは、仲良しの幼馴染じゃない? 久しぶりにミクちゃんに会いたかったんじゃないの、颯くんは?」
「な……! ななななな何だよ!」
ニヤニヤ笑いを浮かべる母さんに、俺は激しく狼狽しながら声を荒げる。
「べ、別に俺は、ミクに会いたくは……ない……訳じゃ……いや……」
「私はそうちゃんと会いたかったよ? だから、真里さんが教えてくれて嬉しかったけど」
「ファッ?」
ミクの「会いたかったよ」という言葉に激しく狼狽する俺。
……って、おいババア! 何だその「計算通り」みたいなドヤ顔は!
「――まあ、三日前くらいに会ったばっかりだけどね」
「……あら、そうだったの?」
苦笑交じりのミクの言葉に目を丸くする母さん。まあ、先週の土曜日に、俺たちが一緒に水族館に行った事など知る由もないだろうから、驚くのも無理はない。
「なーんだ、そうだったんだ。知らなかったわ~」
「そうなんですよ。この前の土曜日に、サンライズ水族館に行ってきたんですよー」
「あらあらぁ~!」
「ちょ! か、勘違いすんなよ!」
ミクの答えを聞いて、その顔を恵比寿様のように綻ばせる母さんに、俺は慌てて声を上げた。
「べ、別に、アンタが考えてるような事じゃないからな! 変な誤解するんじゃねえぞ!」
「あら、そうなの? じゃあ、どういう事なのかしらぁ?」
必死に誤解を解こうとする俺に対し、期待で目を輝かせながら問いを重ねてきた母さん。
「そ……それは……」
その問いかけに対し、言葉を詰まらせる俺。
そんな俺にニコリと笑いかけた母さんが、今度はミクの方に向き直った。
「ねえ、ミクちゃん? お母さんにも詳しく教えてくれないかしらぁ?」
「あ、はい! 実はですね~」
「ちょ! み、ミクさんッ? ちょ、待って……!」
母さんの頼みをあっさりと応諾したミクを制止しようと、俺は慌てて声を上げるのだった……。




