第四十九訓 親の小言は適当に聞き流しましょう
東京都のちょうど真ん中らへんに位置している大平市。
その真ん中を縦断している私鉄の駅から十分ほど歩いた閑静な住宅街の一角に、本郷家――俺の実家があった。
俺の実家は、車が一台停められるスペースと、猫の額ほどの広さの庭を備えた、何の変哲も無い建売の一戸建て住宅だったが、家族三人で暮らすには十分な広さだと思う。
「ただいまぁ~……」
火曜日の午後三時。俺は数ヶ月ぶりに、そんな実家のドアを開けた。
「はーい!」
玄関の奥から聞き慣れた声が聞こえ、リビングに続くドアがガチャリと開いて、見慣れたが久しぶりに見る顔が覗いた。
「お帰り、颯くん!」
「ただいま、母さん」
エプロンで濡れた手を拭きながら玄関に歩いてきたのは、俺の母親・本郷真里だ。パート勤めの主婦で、何故だか知らないが、周囲から若く見られる事が多い。
……でも、実年齢は四十よ――。
「颯くん~? なんか余計な事を考えてない~?」
「アッイエ。何でもない……っす」
穏やかな笑みを浮かべた母さんに、その表情とは裏腹な、猛禽類のように鋭い視線を向けられた俺は、背筋に冷たいものが伝い落ちるのを感じながら、慌てて首を横に振った。
俺の答えに疑わしげな様子で小首を傾げた母さんだったが、すぐにニッコリと笑い直す。
「まあいいわ。入って入ってー!」
「あ……うん」
俺は、母さんの逆鱗に触れずに済んだ事に胸を撫で下ろしながら、靴を脱いで三和土に上がった。
母さんの後に続いてリビングに入った俺は、部屋の様子が以前と変わっていない事になぜか安堵する。
と、
「元気だった?」
台所でお茶を淹れながら、母さんが訊ねてきた。
俺は立ったままで、テーブルの上の菓子入れに入っていたせんべいの封を開けながら答える。
「まあ、普通……」
「颯くんは、いっつもそう答えるよねぇ。他の人にもそうなの?」
「まあ、普通……」
「つまんないって言われない? っていうか、ちゃんと友達出来てるの?」
「……うっさいなぁ」
俺は母さんの質問攻めに辟易しながら、せんべいを一口で頬張った。
そんな俺の事を、淹れたてのお茶を注いだ湯呑をお盆に乗せて持ってきた母さんが、呆れ顔で窘める。
「もう、立ったまま食べないの。お行儀が悪いよ」
「へいへい」
「まったく、親の顔が見てみたいわぁ」
「……『だったら、風呂場の鏡ですぐに見れるよ』ってツッコめばいいのかな?」
「――って! ちょっと!」
「うわっ!」
俺は、母さんが突然叫びながら顔を覗き込んできた事にビックリして仰け反った。
「な、何だよ、いきなり! ていうか、近いっ!」
「颯くん、本当に大丈夫なの?」
俺の抗議にも耳を貸さぬ様子で、深刻そうな表情を浮かべた母さんは俺の目の下を指で擦る。
「目の下、ものすごいクマ出来てるよ! どこか体の具合が悪いの?」
「い、いやいや! これは、単に寝不足なだけ……!」
自分の顔を遠慮なくベタベタと触ってくる母さんの手から逃れようと、必死に顔を背けながら、俺はブンブンとかぶりを振った。
俺の答えを聞いた母さんは、怪訝な顔をする。
「寝不足? 眠れてないの?」
「ま、まあ……ここ何日かだけど……」
「どうして? 何か悩みでもあるの?」
「ええと……」
母さんの問いかけに、俺は答えに詰まった。
そんな俺の反応に、母さんの顔は更に憂いの色を増す。
「もしかして……大学でいじめられてるとか……?」
「いや、別にそうじゃないけど……」
「じゃあ……変な詐欺に引っかかって、お金を要求されてるとか……?」
「いやいや、そんなんじゃないって」
「……もしかして! 女の子を妊娠させ――」
「違げーよ! つか、俺が女とそんな事出来る訳無いじゃんかよ!」
「あ、それもそうかー」
「納得すんなやあああああ!」
納得顔で深く深く頷いた母さんに、俺は思わず怒鳴った。
そして、肩で息を吐きながら、首を横に振りながら答える。
「だから……そういうんじゃないってば」
「じゃあ、何が原因なのよ?」
「それは……」
再び俺は言い淀んだ。
――なぜ、寝不足なのか。その理由はハッキリしている。
(……『家の中で起こったラップ音だかポルターガイスト現象だかのせいで、怖くて寝られなかった』なんて、言えないよなぁ……)
――昨夜、自宅の中で聞こえた奇妙な物音。
あの後も、時折奇妙な音が部屋のあちこちから聞こえてきて、そんな中でビビり倒しながら飯を食い終わった俺はそのままベッドの布団の中に潜り込んだのだが、結局まんじりともせぬまま、今日の朝を迎える事になった。
窓の外が明るくなってから部屋の中をチェックしたものの、音の正体は分からずじまい。
「やっぱり、考え過ぎなんじゃないか」「古い木造の建物だから、気温差で家鳴りしているだけじゃないか?」――そう思い、無理矢理にでも安堵しようとする俺だったが、その度に「この部屋は事故物件だ」というまごう事無き事実が頭の中をもたげてきて震え上がった。
……結局、この部屋で夜を迎える事にすっかり怖気づいてしまった俺は、朝のうちに実家に電話をかけて急遽帰省する事を伝え、午前中だけ大学に行って必修の講義を受けてから、数日分の着替えだけを持って実家に帰って来たという訳だ。
――だが、そんな事を正直に言おうものなら、怖がりなうちの母さんがどんな反応をするか……そう考えると、とても正直に言えなかった。
だから、
「べ、別に大した事じゃないよ。ちょっと講義の課題が溜まっちゃっててさ。それで二日くらい徹夜してただけ」
「そうなの?」
「つ……つー訳で、ちょっと仮眠してくる」
俺は、訝しげな顔をしている母さんの追及を避ける為に、大げさなアクビをしながら言った。……まあ、実際クソ眠いのは確かで、今の大アクビは演技って訳でも無い。
俺は目を擦りながら、母さんに尋ねる。
「俺の部屋って、前のまんま?」
「あ、うん。ちょっと物置みたいにしてたけど、今朝の電話が来てから急いで片付けたから、普通に入れるわよ。布団も干しといたからね」
「サンキュー」
俺は母さんの言葉に頷くと、「ちゃんとお腹に毛布かけるのよー」という声を背中で聞きながら、階段を上った。
そして、久しぶりに自分の部屋に入る。
「おぉ……」
母さんの言葉の通り、小綺麗に片付いた自室を見回し、俺は感嘆の声を上げた。
最後にこの部屋に入ったのは、ミクの卒業式に合わせて帰ってきた時だから、大体三ヶ月ぶりくらいか。
たったそれだけしか経っていないのにも関わらず、何だか妙に懐かしく感じる……。
「ふ……わぁあ……」
だが、そんな感傷に浸る間もなく、俺の口から大きなアクビが漏れた。
無理もない。ここ三日もロクに寝ていないのだ。
「うわ、クッソ眠ぃ……」
俺は、フラフラと覚束ない足取りで窓脇にあるベッドまで辿り着くと、倒れ込むように身を沈めた。
顔を埋めた掛布団からは、懐かしい実家の匂いと、太陽の香りが漂う。
その香りと温もりに心地よい安堵を感じた俺は、
「……むにゃ……Zzz……」
瞬く間に深い眠りの底へと落ちていったのだった……。




