第三十八訓 濡れた手をズボンで拭くのはやめましょう
「はぁ……」
昼食後、用を足しにトイレに来た俺は、洗面台で手を洗いながら深い溜息を吐いた。
「何か……妙な事になっちゃったな……」
そう、俺は独り言ちながら、濡れた手をブンブンと振って水気を切る。
そして、まだ濡れている手をズボンの太股に擦りつけて水分を拭きとると、鏡に映った自分の顔を見た。
鏡の向こうで俺の事を見つめ返している俺の顔は、ひどく冴えない。――あ、いや、顔の造形じゃなく、この場合は“表情”って事ね。……ま、まあ、元々の顔面の方も大して自慢できるようなモンじゃないっちゃないんだけど……って、何言わせるねん!
……と、とにかく、俺の顔は、この上なく浮かない表情を浮かべていたのだった。
「つーか……藤岡、俺の部屋に泊まりに来るって、マジかよ……」
……結局、俺は「本郷くんの部屋に泊まりたい」という藤岡の頼みを断り切れなかった。
彼は、俺が何度も断ったのにも関わらず、執拗に食い下がり、そのしつこさに根負けしてしまったのだ。
といっても、俺は大分頑張った。それこそ、水族館から帰った足でそのまま俺の家に上がり込もうとしかねない勢いだった藤岡をどうにか押し止めて、泊まりに来る日を来週の土曜まで延ばしたのだ。
まあ……とりあえず、それだけ猶予があれば、あの散らかりまくった部屋を何とか片付ける事が出来る……と思う……多分……。
「いや……多分じゃダメなんだよなぁ。死んでもキレイにしないと……」
俺は、そう思い直して、もう一度大きな溜息を吐いた。
――別に、藤岡のヤローが泊まりに来るだけだったら、そんなに気張って部屋をキレイにするつもりも必要も無いんだけど……。
「……あのふたりも来るってなったら、そうも言ってられないんだよなぁ……」
そう呟いた途端、やにわに胸が高鳴った。
“あのふたり”とは、他でもない。ミクと……ついでに立花さんである。
ミクは、『ホダカさんといっしょにお泊まりがしたいです!』という、聞きようによっては大いに誤解を生みそうな動機で。一方の立花さんは、お泊まりでミクと藤岡の仲が更に進展してしまうのを防ぎ、牽制するするつもりで、藤岡といっしょに俺の部屋に泊まりに来ることになったのだ。
……もちろん、その決定に関して、家主の意向は一切反映されていなかった訳で。
とはいえ、我が家にミクがお泊まりにやって来るといういうのは紛れも無い事実である。
思い返せば、あいつと同じ屋根の中で夜を明かすのは、小学生の頃に、俺がアイツの家に遊びに行った時以来だ。
あの頃は、まだ俺の中のミクは“タダの友達”という位置づけだったから、一緒の部屋で寝てても単純に楽しかっただけだったが……今は違う。
藤岡と立花さんがいるという事実を差し引いても、胸が高鳴らないはずが無い。
……とはいえ、『ミクが“彼女として”俺の部屋を訪れる』というシチュエーションだったら、誇張抜きで『夢に出る』レベルで何度もシミュレーションを行なっていたのだけれど、まさか……『ミクが“彼氏といっしょに”俺の部屋を訪れる』という形だとは、欠片も想像できなかったよ……。
更に、『その彼氏の幼馴染の女の子』まで、おまけで付いてくるなんて……。
「はぁ……」
俺は、一週間後の事を考えて憂鬱になりながら、深い溜息を吐いた。
最後に、目の前の鏡に映った生気のない男の顔を睨みつけると、そそくさとトイレを出る。
そして、ミクたちがいる売店コーナーの方に、急ぎ足で向かったのだが……。
「……ん?」
通路の脇にあったものを視界の隅に捉えて、立ち止まった。
俺の目の端に映ったもの……それは、どこにでもあるカプセルガチャの筐体だった。
縦二段のカプセルガチャの筐体が横に四列ほど並ぶ光景は、街中でも見慣れたものだったが、筐体の中に入っているガチャは、海洋生物にちなんだフィギュアやステッカーやミニタオルといった、この水族館限定のシリーズのようだ。
その内容に興味を覚えた俺は、並んでいる筐体の前面に挿し込まれた台紙の内容を順番に見ていく。
……すると、その中の一台に、見覚えのある物を見つけた。
「あれ? これって……」
俺は訝しげな声を上げて、筐体に顔を近付けた。
……間違いない。
「これ……入口の所で、藤岡が立花さんに渡してたヤツだ」
俺が覗き込んだカプセルガチャの台紙には、『海に棲むKAWAII生き物フィギュアキーホルダーシリーズ5』というタイトルと、六種類ほどのキーホルダーの写真が印刷されている。
その中のひとつ――水色のイルカのキーホルダーは、水族館に入る前に藤岡が立花さんに渡していたものと同じだった。
もちろん、シリーズものなので、入っているのはイルカだけではなく、ラッコやアシカなどのキーホルダーもあるらしい。
そして、一際大きく目立つ文字で『シークレット!』と書かれているのは――
「ペンギンか……」
しかも、そのペンギンは、ついさっき屋外エリアでさんざん観察していたケープペンギンだ。
その時――、
「そういえば……あのクイズ大会の優勝賞品も、ケープペンギンのぬいぐるみだったな……」
唐突に、俺の脳裏に午前中の記憶が蘇った。
――両脚が攣るくらい頑張ったクイズ大会。
――その優勝賞品である実物大のケープペンギンぬいぐるみを、目を輝かせて見つめていた立花さん。
――結局優勝を逃して、優勝したホスト&キャバ嬢カップルに手渡されるペンギンぬいぐるみの事を、哀しそうに見ていた立花さん。
――ペンギンプールの柵にしがみつくようにして、泳いだり日向ぼっこをしてたりするペンギンたちの事を、飽きもせずにずっと眺めていた立花さんの横顔……。
「……よし」
そう、俺はポツリと呟くと、おもむろに尻ポケットから財布を取り出した。
そして、
「うわ……マジか。一回三百円もすんのかよ……」
とぼやきながら百円玉を三枚取り出し、迷わず『海に棲むKAWAII生き物フィギュアキーホルダーシリーズ5』のカプセルガチャ筐体に投入するのだった――。




