第三百七十六訓 連絡する時は相手の都合を考えましょう
店を出る前に、俺はもう一度振り返ると、座敷席に座った四十万さんと葛城さんの姿が見えた。
呑気な笑みを浮かべながら大きく手を振っている四十万さんと、緊張で強張った微笑みを浮かべながら小さく会釈する葛城さんに軽く手を振り返してから、俺は店を出る。
「うわ……寒っむ……!」
外に出た瞬間、体に吹き付けてきた木枯らしの冷たさに思わず声を震わせながら、俺は羽織っていたハーフコートの前ボタンを留めた。
「さて、帰るか……」
冷たい外気をコートの生地でシャットアウトした俺は、そう独り言ちると、駅に向かって歩き出す。
まだ終電には余裕がある時間という事もあって、駅へ向かう大通りの道はたくさんの人で溢れていた。
仕事帰りのサラリーマンらしき背広姿の一団、ナンパ目的で行き交う人波に目を光らせている金髪のチャラ男、女子会帰りらしき若い女性たち……。
その中には、腕を組んでぴったりと体を密着させながら歩く仲睦まじい男女の姿もある。
「……」
周囲へこれでもかというくらいに幸せオーラを振り撒くカップルをチラリと見ながら、俺はその横を足早に通り過ぎた。
……以前なら、相手に聞こえないように最小限まで抑えた声で「……リア充爆発しろ」と呪詛のひとつでも吐くところだが、今の俺は違う。
なぜなら、俺も彼らと同じ“リア充”なのだから。
ゆえに、もう街中で人目も憚らずにイチャつくカップルに嫉妬と羨望が入り混じったドス黒い感情を抱く事は無い!
……いや、ゴメン。嘘ついた。普通に羨ましいわ、うん。
「……はぁ」
急に寂しさを覚えた俺は、コートのポケットをまさぐり、スマホを取り出した。
歩きながらLANEを起動させ、トーク履歴の一番上に表示されているアカウントをタップする。
「……」
一旦はメッセージ入力欄に親指を置いた俺だったが、少しだけ考えてから指を離した。
そして、代わりに違うボタンを押してから、スマホを耳に当てる。
少し……いや、だいぶ緊張しながら、スピーカーから聴こえてくるコール音を聴いていると、三回目で音が途切れた。
『……もしもし』
「あ、もしもし……」
聞きたかった声を耳にした途端、初冬の寒さにかじかんでいた体が熱を持つのを感じながら、俺は少し浮ついた声で挨拶をする。
「えっと、その……こんばんは」
『……こんばんは』
少し怪訝そうな声で俺の挨拶に応えたのは、言うまでもなくルリちゃん――いや、俺の彼女だ。
(カノジョ……う~ん、いい響きだ)と、スマホを耳に当てながらしみじみと感慨に耽っている俺に、ルリちゃんが言う。
『……てっきりメッセージだけだと思ってたから、通話が来てちょっとビックリした』
「いやぁ……最初はメッセージだけにしようと思ったんだけど……」
ルリちゃんの言葉に苦笑を浮かべた俺は、少しだけ迷ってから、「でも……」と続けた。
「その……なんか急にルリちゃんの声が聞きたくなっちゃってさ……」
『ふぇ……っ?』
ちょっとクサいかなと思いつつ俺が答えた瞬間、スピーカーの向こうでうろたえ声が上がる。
『な、なに恥ずかしいコト言ってんのさ、このおバカ……』
少し間を置いてから返ってきたルリちゃんの声は、少し怒っているような響きが籠もっていた。
その声色を聞いた俺は、急に不安になって、おずおずと尋ねる。
「あ……ひょ、ひょっとして、いきなり通話したら迷惑だった?」
『え? あ、ええと……』
「って、そりゃ迷惑か……。もう結構遅いもんね……」
『い、いや、別に迷惑とかじゃなくて……』
「ゴメン。やっぱり切るね。また明日、LINEメッセージの方で――」
『ま、待って待って!』
慌てて通話を切ろうとする俺を、スマホの向こうでルリちゃんが必死な声で止めた。
『まだ切らないで! 全然迷惑だなんて思ってないから! むしろ、ソータの声が聞けてうれ…………い、いや、なんでもないっ!』
慌てた様子で発言を途中で取り消したルリちゃんは、困っているような声で『でも……』と続けた。
『どうしよっかな……。今はまだ――』
『ルリルリぃ~。あーしの事は気にしなくてダイジョビよ~』
「へっ?」
ルリちゃんの困り声に被ってスピーカーの向こうで上がった聞き覚えのある声に、俺はビックリする。
「そ、その声は……確か、ルリちゃんの友だちの……」
『あ、ひょっとして、電話の相手ってソータっち?』
……間違いない。
このハスキーボイスと喋り方……何より、俺の事を親しげに“ソータっち”と呼ぶ女の子なんてひとりしかいない。
『ねールリルリ~。ちょっちスマホ貸して~』
『は? な、なんで? 今、ソータと繋がってるんだけど』
『だからだよ~。あーしも一言ソータっちにアイサツしたいな~って』
『え? いや、別にあいさつなん……あ、ちょっと!』
ルリちゃんの声の後、少しの間、ガサゴソという雑音が上がった。
そして、
『――やっほー! ソータっち、おひさ~!』
という、底抜けに能天気……もとい、元気の良い声が俺の耳に飛び込んでくる。
『あーしだよあーし! 覚えてる~?』
「……もちろん、忘れてなんか無いですよ」
(……インパクト強くて、忘れられる訳ないんだよなぁ)と、“陽”のオーラを色濃く纏ったような明るい声に少し辟易しながら、俺は答えた。
「その……お久しぶりです。――アカネさん」




