第三百六十六訓 不満や怒りはあまり溜め込まないようにしましょう
「はあ……」
ずーっと突っ立ったままで、延々とU-TUBE動画を観続ける事に飽きた俺は、スマホから目を上げて溜息を吐いた。
「マジか……ペンギンショーの開始時間まで、まだ二十分ちょいもあるのか……」
ホーム画面に戻したスマホに表示された現在時刻を見た俺は、時間の流れが体感よりも遥かに遅かった事を知ってガクリと肩を落とす。
「やれやれ……」
そうぼやきながらスマホをポケットにしまった俺は、ルリちゃんから預かっていたバスケットを左手から右手に持ち替えた。
中身は空のタッパーだけとはいえ、それでもずっしりと重いバスケットを、スマホで動画を観ている間中ずっと左手で持ち続けていたせいで、すっかり指先が痺れてしまっている。
強張った左手の指をほぐそうとグーパーしながら、俺は何気なく後ろを振り返った。
そして、目に映った光景に、思わず驚きの声を上げる。
「うわ……もうこんなに並んでたのか……」
――俺の後ろには、いつの間にか長蛇の列が出来ていた。言うまでもなく、ペンギンショーの開場待ちの行列である。
家族連れにカップルに、ついでに転売ヤーらしきオッサンどもまで、しめて四十……いや、五十人以上は並んでいるようだ。
午前中も大した盛況ぶりだったが、午後の方も負けず劣らずの人出である。
でも、ペンギンショーが開かれるステージの席はそこまで多くなかったから、もう後ろの方に並んでいる人の分までの席は無いだろう。
つまり、ただの並び損……。
そう考えて、最後尾の人の事を少し気の毒に思った俺だったが……、
(……つか、もし俺が提案した通りに別の所を回ってから並ぼうとしてたら、俺たちも確実に定員オーバー食らってショーを観れなかっただろうな……)
という事実に気付いて、思わずゾッとした。
聞いた時はさすがに大げさだと思っていた、『一時間半前でも早すぎるなんてことない』というルリちゃんの主張が、紛れもなく正しかった訳だ……。
(……こりゃ、ルリちゃんが帰ってきたら、またドヤられるなぁ)
自慢げに胸を張ってふんぞり返るルリちゃんの姿を想像して、俺は思わず苦笑する。
――と、その時、
たまたま脇を通り過ぎた家族連れの子どもふたりが、唐突に俺の事を指さした。
「ねーママー。あのひと、おとこのひとなのにピンクいろのふくきてるよー。へんなのー」
「へんなふくきてにやにやわらってるよー。きみがわるいへんしつしゃだー!」
「……ッ!」
無垢な子どもたちが上げた遠慮会釈無き正直な声によってガラスのハートを穿ち抜かれた俺は、思わず凍りつく。
それに気付いたふたりのお母さんは、「ヤベッ!」みたいな表情を浮かべ、
「こ、こら、やめなさい! 知らない人の事を悪く言っちゃいけません!」
と、小声で子どもたちを叱りつけた。
「……」
そそくさと足早に離れていく家族連れの背中を呆然と見送った俺は、無言のまま、派手なピンク色のトレーナーを着た自分の体に目を向ける。
(……ま、まあ、確かに男がこんな真っピンクのトレーナーなんか着てたら、子どもには変に見えるよなぁ――)
と、全く目に優しくないケバケバしいピンクの生地にデカデカとプリントされたリアルタッチのオオカミウオのイラストを見下ろしながら、俺はつい納得しかける……が、
(……って! 俺だって、こんなクソダサトレーナーなんか着たくねえっつーの! そもそも、誰がこんなデザインのトレーナーを作って売ろうと考えたんだよッ? 売れる訳ね―だろーがッ! ……つか、誰が気味の悪い変質者やねええええんッ!)
さっきのクソガ……お子様たちの言動に時間差でむかっ腹が立ち、荒ぶり叫ぶのだった。
――心の中でこっそりと。
◆ ◆ ◆ ◆
その後――、
俺の勧めに従って、ひとりで水族館を回っていたルリちゃんが戻ってきたのは、ペンギンショーのステージが開く時間の五分ほど前だった。
彼女は無表情で、何も言わずに俺の横に並ぶ。
なんか……ものすごく機嫌が悪そうだ……。
「お、おかえり……」
まるで十倍界〇拳を発動中の〇空のように、全身から真っ赤な不機嫌オーラを発散させているルリちゃんの様子に気圧されながら、おずおずと声をかける俺。
それに対して、彼女は眉間に深い皺を寄せたまま、目だけをこちらに向け、低い声で「……ただいま」と応えた。
「あ……え、ええと……」
そこはかとなく冷たくて、それでいて怒りの籠もったような光を宿した瞳に見据えられた俺は、たじろぎながらも問いかける。
「あ、あの、どうだった……?」
「どうだったって、何が?」
「いや……お、面白かったのかなーって……」
「ふつう」
……超ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
その地の底を這いずるように低い声のトーンで、直感的に(あ、こりゃ、これ以上深掘りしたら地雷を踏み抜くやつだ)と察した俺は、「そ、そうなんだ……」と返すに留める。
そして……、
「……」
「……」
何を言っても悪い結果を招きそうに思えてしまって話題を切り出せない俺と、隣の冴えない男の存在など忘れてしまったかのように無表情でスマホをいじっているルリちゃんの間に、重苦しい沈黙が垂れ込めた。
「…………」
「…………」
き、気まずい……!
まるで深い水の底にいるかのような息苦しさと重圧を感じながら、俺は時計に目を遣る。
……沈黙が始まってから三十分くらい経っているように感じていたが、実際には三分も経っていなかった。
とはいえ……あと二分で行列が動き出すだろうから、何とかそこまで耐え切れれば――。
「……っていうかさあ!」
「ひゃ、ひゃいっ!」
時間切れドローの望みを抱きかけたところで、唐突に上がった険しい声に縮み上がった俺は、壊れかけのオモチャみたいなギクシャクした動きで傍らに顔を向ける。
……案の定、ルリちゃんが破裂寸前の風船のように頬を膨らませながら、俺の事を睨みつけていた。
「ご、ごめんなさいっ!」
「……まだ何も言ってないのに謝るのやめてくれない?」
反射的に頭を下げた俺に、ルリちゃんは冷たい声で言う。
そして、フルフルとかぶりを振りながら、大きな溜め息を吐いた。
「はぁ~、まったく……」
「え、ええと……」
いたく不機嫌なルリちゃんの様子に、とある可能性が浮かんだ俺は、躊躇いながら尋ねかける。
「ひょ……ひょっとして、ひとりで水族館を観ている時に、何かあった……?」
「……なんで?」
「い、いや……なんか怒ってるみたいだから、何か嫌な事でもあったのかなって……」
「分かんないッ?」
突然、ルリちゃんが声を荒げた。
怒りと呆れと苛立ちと……あと何かが入り混じったような表情を浮かべた彼女は、ギラギラ光る瞳で俺の顔を睨みながら声を張り上げる。
「そーだよ! あたし、めちゃくちゃイライラしてんの! でも、それはひとりでいる時に何かあったからじゃなくって、アンタがあたしをひと――」
『……え~、ペンギンショー午後の部をお待ちの皆様ぁ、大変お待たせいたしました~』
ルリちゃんの激しい怒声は、音割れした声によって掻き消された。
思わず声のした方に目を向けると、飼育員さんらしき男性が、えらく年季の入った電子メガホンを口に当てて、ステージ入り口の前に立っているのが見えた。
『これより~、皆様をお席へご案内いたします~。列を乱さぬようにして、前へ進んで下さい~』
飼育員さんの声に応じて、行列が動き始める。
……と、
「……取りあえず、この話はまた後でする」
そう言ったルリちゃんは、プイっと前を向くと、進み始めた前の人に続いて歩き出した。
「えっ? あ、う、うん……」
何を言われるかと身を縮こまらせていた俺は、一瞬ポカンとしてから、慌てて彼女の後に続く。
……さっきルリちゃんが口にしかけた言葉の続きが何だったのか、めちゃくちゃ気になりながら。




