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第三百五十五訓 電車の中では吊革や手すりに掴まりましょう

 「っていうか……」


 徐々に加速し始める車内の振動に体を揺らしながら、ルリちゃんが怪訝な表情を浮かべた。


「なんであんなに夢中で頭をいじってたの、アンタ?」

「あ……っ!」


 彼女の問いかけにハッとした俺は、慌てて頭頂部を手で押さえる。


「そ、その……実は、ちょっと髪の毛が……」

「あっ……」


 俺がそこまで言いかけたところで、ルリちゃんが何かを察した様子で息を呑んだ。

 そして、周りを気にしながら、潜めた声で俺に向けて囁いた。


「だ、大丈夫だよ。ま、まだソータは若いんだから、食生活に気を付ければ進行を遅らせる事は出来ると思うし……」

「し、食生活? 進行を遅らせ……?」

「それに、今は良く効く増毛剤もあると思うし……最悪、ウィッグとかカツラとかでいくらでも隠せ……」

「お、おいいいいいっ! 何とんでもない勘違いしとんねんっ!」


 ルリちゃんが何を言おうとしているのかをようやく理解した俺は、慌ててツッコミを入れる。


「ち、違うよッ? べ、別にハゲてなんかないよ、俺ッ!」

「えっ? でも、髪の毛を気にしてるんでしょ? だったら、やっぱり……」

「だから違うって!」


 戸惑いながら首を傾げるルリちゃんに激しくかぶりを振りながら、俺は頭に当てていた手を離した。

 そして、それまで押さえつけられていた反動でピョコンと立ち上がる寝ぐせを指さす。


「俺がずっと気にしてるのは、コイツの事! 何やっても直らなくって困ってんの!」

「え、コイツって……?」


 意味が良く分からないと目をパチクリさせるルリちゃんだったが、俺が指さす先を見て、ようやく理解出来た様子で小さく頷いた。


「あぁなるほど、そういう事ねぇ……」


 そう呟いた彼女は、呆れ顔になって溜息を吐く。


「まったく……たかが寝ぐせのひとつふたつくらいで気にしすぎだよ」

「い、いや、確かにそうかもしれないけどさ……気にするっしょ」


 ルリちゃんの言葉に納得しつつも口を尖らせた俺は、再び手櫛で寝ぐせをいじりながら「だって……」と続けた。


「きょ、今日は、その……ルリちゃんとデートする日なんだから……頭に“体験版”が付くとはいっても、さ」

「ちょ……っ!」

「……しかも、今日のデートの出来次第で、ルリちゃんと付き合えるかどうか決まるんだから、そら出来るだけ完璧に身だしなみを整えたいと思うじゃん。……それで、わざわざ早起きして準備したっていうのに、こんな寝ぐせが……はぁ」

「わ、分かった! 分かってるからっ!」


 溜息を吐いてがっくりとうなだれる俺に、慌てた様子でルリちゃんが言う。


「だ、大丈夫だよ。別に寝ぐせくらい、あたしは気にしないから! だから、そんなに落ち込まないでよ」

「そ、そう……?」

「そうだよ!」


 半信半疑で訊き返す俺に、ルリちゃんは大きく頷いた。


「っていうか、ソータは元々クセ毛なんだから、髪の毛があちこち跳ねてるのがデフォっていうか……。正直、少しくらい寝ぐせが付いてたって、そんなに違和感無いから」

「そ、そう?」


 ルリちゃんの言葉に、俺はホッとしたようなガックリきたような複雑な感情を覚える。

 『クセ毛だから寝ぐせついてても違和感無い』って……それは、喜んでいいところなのだろうか……?

 ――と、考え込む俺に、ルリちゃんは呆れ顔で言う。


「……だったら、今あたしが直してあげるよ、その寝ぐせ」

「えっ?」


 唐突なルリちゃんの申し出に、俺はビックリして――慌てて首を横に振った。


「い、いや、いいよ。自分でやるから……」

「自分で直せなかったから、危うく電車に乗り遅れるところだったんじゃないの、アンタ?」

「うっ……」


 ルリちゃんに痛いところを衝かれた俺は、返す言葉に詰まる。

 そんな俺をよそに、ルリちゃんは肩から提げたショルダーポーチの中から折り畳み式の小さな櫛とヘアスプレー缶を取り出した。

 そして、畳んでいた櫛を伸ばし、俺に向けて手招きをする。


「ほら、さっさと頭出して」

「い、いや、いいって……その櫛とスプレーだけ貸してくれれば……」

「遠慮しなくていいって。あたしがやった方が早いし」

「で、でも……」


 ルリちゃんの言葉に困惑しながら、俺は周囲を見渡した。

 日曜日の朝七時過ぎにもかかわらず、車内の座席は半分ほど埋まっている。

 その中の何人かの視線がこっそり自分たちに向けられているのを感じながら、俺は小声でルリちゃんに言った。


「な、何だか恥ずかしいよ……。こんな公共の場で女の子に髪をセットしてもらうなんて……」

「何言ってんのさ。いい年した男が」

「あ、いや……いい年した男だからこそ恥ずかしいんですが……」


 ルリちゃんにジト目を向けられた俺は、たじろぎながら答える。

 それを聞いた彼女は、ぷうと頬を膨らませながら、俺の腕を掴んだ。


「もうっ! つべこべ言わないっ!」

「ちょ、ちょっ?」


 彼女に引っ張られた俺は、バランスを崩しかけて、慌てて声を上げる。

 ――と、その時、カーブに差し掛かった電車が大きく揺れた。


「う、うわっ!」

「キャッ!」


 すんでのところで踏ん張った俺は、ルリちゃんが身体を大きくぐらつかせたのを見て、慌てて手を伸ばす。

 そして、倒れかけた彼女の身体を抱きかかえるようにして支えた。


「だ、大丈夫、ルリちゃんっ?」

「あ……う、うん……」



 俺が焦りながら呼びかけると、ルリちゃんはぎこちなく頷く。


「あ、ありがと、ソー……」


 そうお礼を言いかけたところで、ルリちゃんは何かに気付いた様子で目を大きく見開いた。

 それを見た俺は、一瞬どうしてルリちゃんがそんな顔をしたのか分からなかったが――すぐに、自分と彼女の顔の距離がものすごく近付いていた事に気付き、たちまち同じ表情になる。


「「……あっ!」」


 俺たちは、同時に上ずった声で叫びながら、慌てて体を離した。


「ご、ゴメンッ!」

「う、ううん……こっちこそゴメンッ……!」


 動揺を隠せない声で謝り合う俺たちの顔は、多分遠目で見ても分かるくらいに真っ赤になっていたと思う……。

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