第三百四十九訓 お金を借りたらちゃんとお礼を言いましょう
――一週間後の火曜日。
母さんと約束した通り、俺は借りる金を受け取る為、大学の講義が終わった足で実家へと帰った。
久しぶり……と言っても、たかだか一ヶ月ぶりの帰省だったが、それでも母さんはめちゃくちゃ喜びはしゃいでいた。
夕食の準備も張り切ったようで、献立は全部俺の好物で、更に量も半端なかった……が、食事の時間中ずっと母さんからルリちゃんとの事を質問攻めされたせいで、正直全然食った気がしなかった。
結局俺は、テーブルの上に所狭しと並べられた料理の中にカツ丼が無かったのが不思議なくらいだった母さんの執拗な追及と会話誘導の前に屈し、自分がルリちゃんを好きな事や、今回まとまった金が必要になった経緯まで、余さずゲロらされてしまったのである……。
――その翌日。
「……じゃあ、そろそろ行くよ」
少し遅めの朝食を摂って一休みしてから、俺は洗い物をしている母さんに声をかけた。
「えぇ~?」
俺の声を聞いた母さんは、あからさまにガッカリした表情を浮かべる。
「もう行っちゃうのぉ? もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」
「いや……今日も午後から講義があるから、そろそろ出ないと」
不満げに口を尖らせる母さんに、俺は首を横に振りながら答えた。
さすがに大学の講義を大義名分に持ち出されては引き止められないと諦めながらも、それでも何か言いたげそうな母さんを尻目に、俺は荷物の入ったリュックを肩にかける。
そして、濡れた手をエプロンで拭きながらキッチンから出てきた母さんに向けて、ぺこりと頭を下げた。
「その……ありがとう。金貸してくれて」
「あはは、別にそんな改まらなくていいのに。親子なんだからさ」
俺のお礼の言葉に苦笑した母さんは、少し心配そうな顔になって尋ねる。
「……って、三万円で足りる? もう少し渡した方がいいかしら? 百景島の水族館って、色々高いんでしょ?」
「あっは……あ、いや……」
母さんの申し出に脊椎反射で頷きそうになるのをすんでのところで止めた俺は、ズボンの尻ポケットに入れていた財布を軽く叩いてみせた。
「いや、大丈夫。三万円で十分だよ。別に、俺の持ち金がスッカラカンって訳でも無いしさ」
「そう?」
「それに、実は――いや、何でもない」
続きを言いかけたが、俺は気が変わって咄嗟にはぐらかす。
……実は、昨日の夜、仕事から帰ってきた父さんから、『餞別だ』とこっそり一万円をもらっていたのだが、それを母さんに言うのはマズいと判断したからだ。
多分、その一万円は、父さんが少ない月々の小遣いを地道に貯めたへそくりの一部のはず。……まあ、父さんがへそくりしてる事を知ったからといって、母さんが小遣いの額を減らしたりする事はさすがに無いと思うけど、藪をつついて蛇を出しかねない真似は避けた方がいい……と思う。
「……と、とりあえず、そういう事だから!」
俺は、勘のいい母さんに感づく暇を与えないように声を上げた。
「とりあえず、金は借りてくね。後で必ず返すから、安心して」
「ふふ、分かった。でも、別に急がなくていいからね」
母さんは、俺の言葉に微笑みながら軽く頷いた。
「無理せず、返せる時に返せる分だけ返してくれれば。期待せずに待ってるわ」
「う、うん。まあ、なるべく早く完済できるように頑張ります……」
「ま、最悪、払ってくれなくても構わないわよ」
そう言って、母さんは軽く首を左右に振る。
意外な答えに目を丸くした俺に、母さんはにっこりと満面の笑みを浮かべながら言葉を継いだ。
「私たちに孫を抱かせてくれるんなら、三万円くらい安いもんよ、ふふふ」
「……だから、そういうのは、まだ気が早えっつってんだろが」
母さんの言葉に辟易しながら、俺は溜息混じりにツッコむ。
そして、肩にかけたリュックを背負い直すと、玄関に置いてあった自分の靴に足を通した。
「じゃ……いってきます」
「はいはい、いってらっしゃい」
俺の挨拶に微笑んだ母さんは、三和土の上で軽く手を振りながら、更に言葉をかける。
「がんばってね」
「……何をだよ」
「そりゃ、色々よ」
ウンザリ顔で訊き返した俺にはぐらかすような答えを返した母さんは、意味深なウインクをしてきた。
それに思わずイラっとして文句を言いかけた俺だったが、これ以上話を続けたら永遠に出かけられないと察して、大きな溜息を吐くだけに留める事にする。
「……じゃあ、もう本当に行くわ」
「また帰って来なよー。待ってるからね」
「はいはい……了解しましたよ」
母さんの言葉に適当な相槌を打ちながら、俺は玄関のドアを開けて外に出た。
そして、相変わらず手を振っている母さんに軽く手を振り返しながら、ゆっくりとドアを閉める。
と、その時――、
“ガチャリ”という音と共に、隣の家のドアが開いた。
そして……次の瞬間、
「じゃあ、お母さん。いってきまーす!」
「あ……っ!」
続いて上がった明るい声を耳にした俺は、思わず驚きの声を漏らしながら、大きく見開いた目を隣家の方へ向ける。
「……あっ」
声に続いて玄関の外に出てきた人物も、呆然と突っ立っている俺の姿にすぐ気付き、ポカンと口を開けてこちらを凝視した。
「み……」
「そ……」
顔を見合わせた俺たちは、驚き混じりの声で互いの名を口にする。
「ミク……」
「そうちゃん……?」




