第三百四十八訓 お願いする時は態度に気を付けましょう
『ふぅ~ん……』
失言で青ざめる俺の耳に、どことなく意味深な響きの籠った母さんの声が届いた。
その声を聞いた俺は、母さんから先ほどよりも苛烈な質問の嵐が来ると覚悟し、覚悟を決めて身構える。
……だが、
『颯くんが、ルリちゃんと一緒に百景島の水族館にねぇ……へぇ~、そうなんだぁ』
意外にも、母さんはそんな事を電話の向こうでひとりごとのようにブツブツと呟くだけだった。
俺は、予測と違う母さんのリアクションに戸惑いつつもホッとし、小さく息を吐きながら、おずおずと声をかける。
「な、なんだよ……」
『うぅん~、別にぃ~』
母さんは、俺の問いかけに対し、妙な抑揚をつけた声で答えた。……電話越しなのでもちろん見えないが、今の母さんがどんなツラをしているのかは、その声の浮かれた調子で大体分かる。
それを想像して渋面を浮かべながら、俺は苛立ちに満ちた声で電話口の向こうに問いかける。
「で、どうなんだよ。金を貸してくれるの? くれないのっ?」
『あらあら、お金の無心をしてる立場の割に、随分な物言いじゃない?』
「ぐ……そ、それは……」
『……あぁ、照れちゃってるのね、かーわいい♪』
「うっ、うるっさいわっ!」
からかうような母さんの声に顔が真っ赤になるのを感じながら、俺は声を荒げた。
「貸してくれないんだったらいいよっ! もう実家には頼らねえから! じゃあな――」
『ごめんごめん。ちょっと浮かれ過ぎたわね。そんなに怒らないで、颯くん』
癇癪を起こした俺をなだめるように、母さんは軽い調子で謝る。
『別に、お金を貸さないなんて言ってないわよ』
「……ホントか?」
『嘘言ってどうするのよ』
半信半疑の俺に、母さんは言った。
『せっかく颯くんが自分から頼ってきてくれたんですもの。お金くらいなら喜んで貸してあげるわよ』
「か、母さん……!」
『ウチが下手に断って、消費者金融とか……もっと利息が高くて危ない所から借りられたりしたら困るしね』
「い、いや……さすがにそういうヤバい所から借りるつもりは無いけど……」
『それに……私たちに新しい義娘や孫が出来る最後のチャンスかもしれないしねっ』
「いっ、いや、お嫁さんって……! さ、さすがに気が早すぎ……」
母さんが口にした『お嫁さん』という言葉に辟易して顔を引きつらせる俺だったが――一瞬、そんな未来を想像して、僅かに胸を高鳴らせる。
「じゃ、じゃあ、金……貸してくれるって事?」
『ええ、いいわよ』
俺の確認に、母さんはあっさりと答えた。
それを聞いて、俺はパッと顔を綻ばせる。
「母さん! ありが――」
『って事で、家まで取りに来てね』
「と……へ?」
感謝の言葉を述べようとしていた俺は、母さんが続けた言葉に間の抜けた声を上げた。
「と……取りに来て? 何を?」
『何をって……そりゃあ、お金に決まってるでしょ?』
訊き返す俺に、母さんはシレっとした声で答える。
『二万……いえ、本郷家が繁栄するか断絶するかのターニングポイントなんだから、奮発して三万円くらいでもいいかしら? 用意しとくから、お休みの日に家まで取りに来て。いいわね』
「えぇっ?」
俺は、母さんの言葉に思わず声を上ずらせた。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 別に、俺がそっちまで行く必要は無くね? 俺の口座に振り込んでくれれば――」
『あら、そんなのダメよ』
母さんは、俺の提案をつれなく却下する。
『大事なお金なんだから、確実に手渡ししないとね』
「い、いや……別に口座振り込みでも変わらない……っていうか、落としたりするかもしれない分、手渡しの方がリスク高いじゃん」
『もーっ! 屁理屈言わないの!』
「いや、屁理屈か、これ……」
『とにかくっ! 実家まで取りに来ないなら、お金貸してあげないわよっ!』
「ぐっ……ひ、卑怯なッ!」
母さんに借金を人質……もとい、金質に取られた形の俺は悔しさに歯噛みするが、他にどうしようもなかった。
「……分かったよ。取りに行けばいいんだろ」
『そうそう。分かればよろしい!』
しぶしぶ折れた俺に、母さんは勝ち誇った声を上げる。
それに激しくイラっとしながらも、金を借りる立場である事を弁えてグッと堪えた俺は、努めて平静を装いながら言った。
「じゃあ……来週の火曜日あたりにそっち行くからよろしく」
『はーい、りょーかーい!』
母さんが、俺の言葉に嬉しそうな声で答える。
『ちょうど一週間後ね。ごちそう作って待ってるからねぇ』
「……出来れば、カレーと唐揚げがいいな」
『カレーと唐揚げね。分かったわ』
俺のリクエストに気安い調子で答えた母さんは、何かを思い出したように『あ、そうそう』と続けた。
『おいなりさんはどうする? ごはんものだから、微妙にカレーとかぶっちゃうけど、颯くん好きよね、おいなりさん』
「あ……いなり寿司か……」
母さんの問いかけに、俺はあの甘じょっぱいいなり寿司の味を思い出す。
口の中に湧いた唾を飲み込みながら、一度は「うん」と答えかけた俺だったが、ふと思い返し――少し考えてから、
「……いや、いなり寿司はいいや」
と断った。
『あら、そう?』
母さんは、俺が断った事に意外そうな声を上げる。
『本当にいいの? 昔は、三食おいなりさんでも喜んで食べてたじゃない、颯くん』
「うん、まあ、そうなんだけど……」
『……ひょっとして、好きじゃなくなっちゃった?』
言い淀む俺に、母さんが心配そうな声で訊いてきた。
『ほら……お誕生日会の時に、おいなりさんを喉に詰まらせた事がトラウマになったとか……?』
「あぁ……そういえば、そんな事もあったな……」
母さんの言葉であの時の事を思い出した俺は、懐かしさと気恥ずかしさで思わず苦笑いしながら、軽く首を横に振る。
「別に、あんな事くらいでトラウマになんかならないって……まあ、あれのせいで、俺の初恋は玉と砕けた訳だけど……」
『え? なんて?』
「あ……い、いや、こっちの話……」
訝しげな母さんの問いかけを適当にはぐらかした俺の脳裏には、あの時食べたいなり寿司が思い浮かんでいた。
――次にいなり寿司を食べるなら、あれがいいな。
ルリちゃんが作ってくれたいなり寿司が……。




