第三百二十七訓 出勤の打刻は余裕を持って打ちましょう
その日の夕方――。
「はぁ……」
バイトの為にビックリカメラの事務所に上がった俺は、ロッカーで着替えながら溜息を吐いた。
「“恋人になる為のパラメータ上げ”……かぁ」
呟く俺の脳裏に、昼間のラウンジで一文字と交わした会話の内容が浮かぶ。
「確かに……今のままじゃ、ルリちゃんは俺の事を“恋愛対象”として意識できてないだろうから、恋愛関係になる為にもっと好感度を上げた方がいいんだよな……」
ワイシャツのボタンを留めながら、俺はぶつぶつとぼやく。
「その為には、一文字の言ってた通り、『もう一回ルリちゃんと直に会うイベントを起こす』のが一番だけど……」
自分のロッカーの中に吊るされたハンガーにかかっていた制服のベストを取り出しながら、俺はもう一度溜息を吐いた。
「かといって……アイツが言ってた誘い文句は、ストレートすぎるというか、オタクくさいというか……」
腕を通したベストのチャックを上げながら、俺は首を傾げる。
「つーか……ルリちゃん……女の子的には、どういう風に誘われたら嬉しいんだろ?」
大学からバイト先に来るまでの間、ずっとその事について考えていたけれど、結局答えは出なかった。
……それも当然っちゃ当然か。
俺は男……しかも、彼女いない歴=年齢な陰キャ男なのだ。
女心なんて、『邪馬台国やアトランティス大陸がどこにあったか』並みに未知な領域なのである。
ここはひとつ……誰かにアドバイスを乞いたいところだ。
もちろん、一文字のような俺と同類なんかじゃなく……出来れば、ルリちゃんと年が近い女性の意見が聞きたい。
「でも……一体誰に……」
――真っ先に頭に浮かんだのは、ミクの顔だ。
あいつなら、幼馴染の俺はもちろん、ルリちゃんの事も良く知っているから、アドバイスを受けるならうってつけかもしれない。
あいつの事だ。多分……俺が恋愛の事で悩んでいると知れば、めちゃくちゃ親身になって相談に乗ってくれるはずだ。
……とはいえ、正直、失恋した相手でもあるミクに自分の恋愛相談をするのは、やっぱり抵抗を感じる。
万が一、ミクが彼氏である藤岡さんに喋ったりしたら、更にややこしくなる可能性が……何せ、藤岡さんはルリちゃんの幼馴染であり、失恋の相手なんだから。
「……うん、無いな。ミクに相談するのはやめた方がよさそうだ……」
ロッカーの鍵を回しながら、俺は小さく頷く。
……そうなると、他には誰が――。
「まあ……ルリちゃんとは十歳くらい離れてるけど、あの人も“若い女性”か……一応」
何気なくそう呟いた俺は、すぐに慌てて周りを見回すが……幸い、狭い男子更衣室の中には、俺以外に誰もいなかった。
「……やれやれ」
俺は、ホッと胸を撫で下ろしながら、男子更衣室を出る。
「万が一にも誰かに聞かれて、回り廻ってあの人の耳まで届いてしまったら、マジでヤバいからな……」
「何がマジでヤバいのかなぁ?」
「わあっ!」
更衣室から出た瞬間、いきなり声をかけられて、俺は素っ頓狂な叫び声を上げた。
慌てて声の方に顔を向けると、眼鏡をかけた黒髪美人がニヤニヤ笑いを浮かべて立っていた。
「だ、檀さんッ! な、なんでそんなところにっ?」
「なんでって……」
上ずった俺の問いかけに、人事担当の檀美空さんは、更衣室の方を指さす。
「なんか、本郷くんがなかなか出てこないな~って気になったから、こっそり聞き耳を立……様子を窺ってただけよ」
「……今『聞き耳を立ててた』って言いかけましたよねっ?」
俺は、シレっとしている檀さんの整った顔にジト目を向けた。
「つか、男子更衣室の壁に張り付いて聞き耳を立ててるなんて、性別が逆だったらセクハラじゃないっすか? ……いや、今は男女平等だから、逆じゃなくてもセクハラに――」
「ねえ、そんな事より」
檀さんは、俺の言葉を遮るように声を上げると、事務所の壁を指さす。
「時間大丈夫?」
「時間……って、うわあああああっ!」
何気なく檀さんの指の先に目を向けた俺は、壁にかかっている時計の短針が6の字を指している事に気付くや、思わず悲鳴を上げた。
「やべえっ! 遅刻するぅっ!」
そう叫びながらタイムレコーダーに駆け寄り、大急ぎで打刻する。
……幸い、ギリギリのところで間に合った。
「ふぅ……」
「おっ、間に合った? 良かったねぇ」
打刻した僅か数秒後に“18:01”に変わったタイムレコーダーの表示を見ながら安堵の息を漏らす俺に、檀さんが呑気な声をかけてくる。
振り返った俺は、檀さんの顔を恨めしげな目を向けた。
「いや……そもそも、檀さんに声をかけられなかったら、余裕で間に合ってたんですけど」
「何言ってんよ。もっと早く来ればいいじゃない」
「『残業代を減らす為にゼロ分打刻しろ』っていう店側の決まりに従ってるだけっすけど」
「うふふ、確かに」
言い返した俺に対して、妙に素直に頷いた檀さんは、ニヤリと不敵な笑みを浮かべながら「でもさぁ……」と続ける。
「『打刻前の唱和を省いていい』なんて決まりはなかったような気がするんだけどねぇ」
「あっ……」
檀さんの言葉を聞いた俺は、顔を青ざめさせた。
ウチの店では、必ず打刻前に『おはようございます。本日も一日、お客様を第一に! 笑顔で明るく元気よく! よろしくお願いします!』と唱和しなければいけない決まりがある。もし、うっかり忘れたり、気の抜けた唱和をしたりしたら、すかさず事務所の席にいるハg……副店長から嫌味たらしい指摘が入るのだ。
俺は、慌てて事務所の中に目を向けるが……、
「うふふ、大丈夫よ。今は私しかいないから」
そう言って、檀さんが愉快そうに笑う。
その言葉通り、事務所の中には誰もいなかった。
「あぶねー……」
空の事務所を見て、俺はホッと胸を撫で下ろす。
……と、檀さんが俺の肩を叩いた。
「……安心するのはまだ早いんじゃなあい? 本郷くぅん」
「へ……?」
「いやぁ……私、一応人事だし?」
そう言った檀さんは、ニヤリと薄笑む。
「やっぱり、『本郷くんが唱和サボりました』って、上長に報告入れなきゃいけないんじゃないかなぁ。……仁良副店長あたりにさ」
「う……み、見逃して下さい……」
「え~? どうしよっかな~?」
おずおずと頭を下げる俺に、檀さんはいたずらっ子のような顔をしながら、わざとらしく首を傾げた。
「一応、私は人事責任者だしなぁ」
「そこを何とか……!」
「……じゃあ」
檀さんは、懇願する俺に向けて、まるで周瑜を策に嵌めた時の孔明のような意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「さっき、ロッカーの中でブツブツ呟いてた事について、後で詳しく教えて?」
「……やっぱり盗み聞きしてたんじゃん」
「何か言ったぁ?」
「アッイエッ! 何でもないっすっ!」
口の中でこっそりと漏らしたボヤキをまんまと檀さんに聞かれてしまった俺は、慌てて首を左右に振った。
そんな俺に、檀さんは目を細めながら再び尋ねる。
「で……返事はどうかしら? 『はい』? 『イエス』? 『ウィ』? 『ラジャ―』?」
「……肯定以外の返答が許されてないじゃないっすか」
辟易しながらツッコんだ俺は、大きな溜息を吐きながら、しぶしぶ頷いた。
「……分かりましたよ。その代わり、唱和の件は見なかった事に……」
「おっけー!」
俺の返事を聞いた檀さんは、片目を瞑りながらサムズアップする。
その満面の笑顔に少しイラっとしつつ、俺は売り場へ降りる階段に向かおうとした。
「じゃ……あまり遅くなると四十万さんに怒られるので、俺はそろそろ」
「あぁ、そうね」
俺の言葉に頷いた檀さんは、フッと表情を曇らせる。
「頑張ってね……これから、OAコーナーはちょっと大変になるかもだけど」
「……え?」
檀さんの言葉が妙に引っ掛かり、俺は思わず足を止めた。
「……なんかあるんすか? OAコーナー……」
「あれ? ひょっとして、まだ知らなかったの?」
俺の問いかけに目を丸くした檀さんは、おもむろに事務所の端に掛けられたホワイトボードを指さす。
「ほら、アレ」
「アレって……人事発令っすか?」
ホワイトボードの真ん中には、『人事発令』というタイトルが付いたA4の用紙が貼りつけられていた。
本文には『下の者、10月1日付を以て、真宿新店への異動を命ず』と書かれていて、その下には三人ほどの名前が並んでいる。
何気なく名前の一覧に目を向けた俺だったが、
「…………えっ?」
その中に『四十万 香苗』という見慣れた名前を見つけ、思わず絶句するのだった……。




