第三百十二訓 歩道ではあまり広がらずに歩きましょう
それから五分ほどで髪の毛を整えたルリちゃんと俺は、亜樹子さんに見送られながら一緒に家を出て、暗い夜道を駅へと向かった。
――雨上がりの夜の道は、湿った埃の匂いがする。
等間隔に置かれた街灯の明かりをなぞるように、幅の広い歩道を歩くルリちゃん。俺は、その一メートルほど後ろについて歩いていた。
街灯の下を通り過ぎる度、軽く揺れる彼女の明るめの茶髪がLEDの白い光を反射してキラリキラリと輝く。
それをぼんやりと見つめる俺は、胸の鼓動の高まりを感じながら、ただ黙々と歩を進めていた。
――と、
「……ねえ」
そう声を上げながらルリちゃんが立ち止まり、急に振り返る。
こっちを向いた彼女は、不機嫌そうに頬を膨らませていた。
「なんでずっとあたしの後ろを黙って歩いてるのさ? なんか嫌なんだけど」
「え? あ、いや……」
ルリちゃんから咎めるように問いかけられた俺は、咄嗟に目を逸らしながら言葉を探す。
「そ、その……ほ、歩道では並んで歩いちゃいけませんって教わった……から?」
「何だそれ? 小学生か」
苦し紛れに口から出た俺の答えを聞いたルリちゃんは、呆れ顔で足元を指さした。
「そりゃ、狭い歩道だったらそうかもだけど、ここはこんなに広いじゃん。確かに何人も並んで歩いてたら迷惑だけど、ふたりくらいなら全然平気でしょ。そもそも、こんなに遅い時間じゃ、他の人と行き交う事もほとんど無いし」
「う……あ、まあ、確かにそうだね……」
彼女の言う事はもっともで、俺はぎこちなく頷くしかない。
そんな俺の煮え切らない反応に、ルリちゃんは怪訝な顔をしながら首を傾げた。
「……なに? あたしと並んで歩かない理由が他にあるの?」
「あ、いや……」
彼女に尋ねられた俺は、目を四方八方に泳がせながら、曖昧に言葉を濁す。
問いかけられても答えが分からない……という訳ではない。
むしろ……ルリちゃんと並んで歩かない――いや、歩けない理由は、これ以上なくハッキリ解っている。
――ルリちゃんの事が好きだと気付いてしまったから――
さっき、ルリちゃんの部屋で自分の気持ちを知ってしまった事で、俺の中での彼女の位置づけが変わってしまったのだ。
そう――『友達』から『片想いの相手』へと……。
そして、一度そうなってしまったら、もう以前のように彼女の事を見れなくなってしまった。
ルリちゃんの姿、ルリちゃんの声、ルリちゃんの仕草、ルリちゃんの表情……ルリちゃんをルリちゃんたらしめているもの全てに、俺の心は激しく揺れ動かされてしまう。
そんな風になってしまって、ルリちゃんの後ろ姿を目で追うだけでも胸が高鳴っているのに、並んで歩くなんてとんでもない。
下手したら――
「下手したら……不整脈か心不全を起こして、異世界転生してしまうかもしれないんで……」
「……はあ?」
「……あ」
しまった……。
つい、頭の中で考えていたモノローグを口に出してしまった……。
……だが、
「不整脈……心不全? なんで? ていうか、異世界転生って……何?」
幸いにも、俺の口から漏れたのはモノローグのほんの一部分だけだったので、ルリちゃんには意味が通じなかったようだ。
それに気付いて、心の中でホッと胸を撫で下ろしながら、俺は彼女に向けて首を横に振る。
「な、なんでもないよ。こっちの話。……とにかく、大したことじゃないから、君は気にしな――」
「もうっ! まだるっこしいなぁっ!」
と、苛立たしげに荒げた声で俺の答えを遮ったルリちゃんは、「もういいから!」と短く叫びながら、目にも止まらぬ速さで両手を伸ばし、俺の腕をがっしと掴むと、まるで大きな蕪を引っこ抜くように腰を落として自分の方へと引っ張った。
「ふぇっ?」
「ごちゃごちゃ言わずに、あたしの横に並べえっ!」
「あぁれえぇぇ~?」
すっかり油断していた俺は、彼女の力に抗う間もなく、たたらを踏みながら情けない悲鳴を上げる。
「これでヨシ!」
「あ……!」
してやったりとばかりに無邪気な笑みを浮かべるルリちゃんの顔が目と鼻の先にあって、自分の手首が彼女の柔らかな掌の温もりに包まれている事に気付いた俺は、顔面全体がみるみる熱を帯びるのを感じて、反射的に目を逸らした。
「い、いや、ちょっと……ち、ちか……」
「……さっきからなんか変だよ、ソータ」
激しく動揺している俺の耳に、訝しげな響きを伴ったルリちゃんの問いかけが届く。
恐る恐る視線を戻すと、怪訝な表情を浮かべる彼女の顔があった。
「……急にどうしたの? なんか、あたしの事を避けてない?」
「い、いや……それは、その……」
ルリちゃんの問いかけられ、俺は返答に詰まる。
そんな俺の反応に、彼女は表情を曇らせた。
「ひょっとして……またなんか怒らせるような事しちゃった?」
「いや、別に、怒ってる訳じゃ……」
「……やっぱり、あの、ちょっとだけ火を通しすぎちゃった野菜炒めの事?」
「あ、いや……それは別に関係ないよ」
若干“ちょっとだけ”という言葉に引っかかりつつも、俺は首を横に振る。
だが、
「……別に、無理してウソつかなくていいよ。さっきはフォローしてくれたけど、アレが怒らせても仕方ない出来だったって、あたしも自覚はしてるから」
「い、いや、ホントに関係ないから……」
「で、でも! ひとつ言い訳させて!」
ルリちゃんは、必死な顔で俺に詰め寄った。そのせいで、ただでさえ近かった彼女との顔の距離が更に近くなって、俺の心臓は胸から飛び出しそうになる。
「ちょ! わ、分かってるから、す、少し離れ――」
「あ、アレは! その……雷が……」
狼狽する俺にも気付かぬ様子でそう続けたルリちゃんは、恥ずかしそうに俯いた。
一方の俺も、耳に入ってきた意外な単語が気になって、思わず訊き返す。
「……雷? 雷がどうしたの?」
「あ……あの時……あたしが料理してる時、ママが『雷が鳴ってる』って言ってたじゃん……」
さっきまでの勢いが嘘のようにシュンとなったルリちゃんは、ぽつぽつと話した。
「……それで、あたし……リビングに戻るのが怖くなっちゃって……もう大丈夫かなって思うまで、ずっと炒めてたんだよ、野菜炒め……」
「あぁ……そういう事……」
彼女の言葉を聞いた俺は、野菜炒めがああなってしまった理由にようやく気付く。
「つまり……雷が止むのを待ってる間、ずっと野菜を炒め続けてたせいで焦げちゃった……と」
「…………うん」
俺が口にした答えに、ルリちゃんは顔を赤くしながら小さく頷いた。
「だから……本当は、ちゃんと美味しく出来るはずだったの。……言い訳に聞こえるかもだけど……」
そう言った彼女は、急に俯かせていた顔を上げ、「……だから!」と続ける。
「またウチに食べに来てよ!」
「え……?」
「できれば、今度は晴れた日……絶対に雷なんか鳴らない日に!」
ルリちゃんは、大きな目を更に大きく見開きながら、懇願するように言った。
「今度こそ絶対に、美味しい野菜炒めを食べさせてあげるから!」
「……うん、分かったよ」
必死な様子の彼女に思わず口元を綻ばせながら、俺は大きく頷く。
「また来るよ。君の作ってくれた野菜炒めを食べに」
「うん!」
俺の返事を聞いた瞬間、ルリちゃんの顔がぱあっと輝いた。
「約束だよ! 絶対に食べに来てね!」
「お、おう……了解っす」
「期待しててね! 今度はバッチリ美味しいのを作って、ソータをぎゃふんって言わせてやるから!」
「いや、ぎゃふんって……食べ物を食った時のリアクションじゃないような気がするんですけど……」
少しオーバーなくらいにはしゃぐルリちゃんに圧倒されながらも、俺は口元を綻ばせる。
彼女が喜んでくれるのが、素直に嬉しかった。
――でも、
ルリちゃんがこんなに俺と親しく接してくれるのは、あくまで俺たちが“友達”だからだ。
もしも、俺が自分の秘めている想い――ルリちゃんを“異性として”意識している事を彼女に打ち明けたりしたら……
この“友達”としての関係は――どうなってしまうのだろうか……?




