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第三百十訓 遅くなる前に家へ帰りましょう

 ――と、


「……って」


 ふと目に入った壁時計の短針が『10』を指しかけている事に気付いた俺は、思わず声を漏らした。


「も、もう十時? マズい……そろそろ帰らないと……」

「え……?」


 俺の呟きを聞いたルリちゃんが、ハッとした顔をしながら壁時計を見上げる。


「ホントだ……いつの間にそんな時間に……」

「え~? もう帰っちゃうの?」


 何故か少し沈んだルリちゃんの声を遮るように、亜樹子さんが不満の声を上げた。


「まだ終電まで時間あるでしょ? もうちょっとお話ししましょうよ~」

「い、いや……明日早いんすよ……」


 引き止めようとする亜樹子さんに対して、俺は首を横に振る。


「明日は、一限目から必修の講義が入ってて、九時前には大学に着いてなきゃいけないので……」

「大丈夫じゃない? 一回くらいサボったってバレないわよ」

「それが……その講義は初めに出席を取るので、バレるんすよ……」

「だったら、友だちに連絡して代返してもらえばいいじゃない」

「いや、ダメでしょ」


 俺は、しれっと不正を唆す亜樹子さんにジト目を向けた。……つか、代返しようとしても、そもそも協力してくれる友だちなんて、俺にはいな……ゴホンゲフン!


「ちょ? どうしたの? いきなりむせたりして」


 悲しきモノローグに激しく咳き込んだ俺を心配したルリちゃんが、そう声をかけながら麦茶の注がれたコップを差し出した。


「あ、う、うん。大丈夫……ありがとう」


 俺はお礼を言いながら、彼女の手からコップを受け取る。

 そして、コップの縁に唇を付けて、良く冷えた麦茶を口に含む。

 ――と、その時、


「じゃあ、今日はウチに泊まっていきなさいよ、本郷くん」

「ぶふぅっ?」


 急に亜樹子さんが口にしたとんでもない提案に、俺は思わず口に含んでいた麦茶を噴き出した。


「ちょ、ちょっとママっ? 泊まっていけって……い、いきなり何を言ってんのさっ?」


 ルリちゃんも、慌てて母親に叫ぶ。

 そんな娘の剣幕にも涼しい顔で、亜樹子さんは「だって」と答えた。


「今から帰っても、家に着くの遅いじゃない。だったら、今日はウチに泊まってゆっくりして、明日の朝に大学行けばいいと思うんだけど。お風呂とかも入っちゃってさ」

「お、お風呂ぉっ?」


 亜樹子さんの言葉に狼狽えたのか、ルリちゃんの声が裏返る。


「そ、ソータをウチのお風呂に入れるって?」

「そうよー」

「い、いや、『そうよー』じゃねえしっ!」


 ルリちゃんは、怒りで顔を真っ赤にしながら怒鳴った。

 そんな彼女に、亜樹子さんが怪訝そうに尋ねる。


「あら? 嫌なの?」

「そ、その……イヤっていうか……なんか……は、恥ずかしいじゃん……」

「うふふ、さすがに、一緒に入れとまでは言ってないわよ~」


 妙に歯切れが悪くなるルリちゃんにニヤニヤしながら、亜樹子さんは言った。


「……あ、ルリが一緒に入りたいっていうんだったら、別に止めないけど?」

「ふぁ、ふぁっ?」

「んな訳あるかぁ! このバカママがッ!」


 真っ赤だった顔を更に赤くさせながら声を荒げたルリちゃんは、今度は俺の顔をキッと睨みつける。


「ソータも、このバカママの言う事を真に受けんなッ!」

「も、もちろん分かっておりますルリさん……」


 俺は、威嚇するネコみたいなルリちゃんの剣幕に気圧されながら、コクコクと頭を縦に振った。

 それを見たルリちゃんは、大きく息を吐いてから肩の力を抜き、微妙に視線を逸らしながら、呟くように言う。


「あ、あたしが恥ずかしいっていうのは、その……ソータにあたしたちが毎日入ってるお風呂を見られるのが……って事で……」

「あら、何言ってんのよ」


 モジモジしているルリちゃんに、亜樹子さんが呆れ声を上げた。


「別に、お風呂を見られるくらいいいじゃない。っていうか、あなたも見たし使ったんでしょ? 本郷くん家のお風呂をさ」

「ぐ! そ、それは……」

「だったら、別にいいじゃない。――ねえ、本郷くん?」

「ふふぇっ?」


 いきなり話を振られて、すっかり油断していた俺は、思わず目を白黒させる。

 そんな俺のリアクションを面白がるように微笑んだ亜樹子さんは、猫なで声で言った。


「本郷くん家ってユニットバスなんでしょ? ウチのお風呂ならちゃんと湯船に浸かれるから、ゆったりできるわよ?」

「い、いや、でも……」


 亜樹子さんの言葉にどう答えればいいか分からず、曖昧な声を上げる俺。

 ……と、


「あ、そーだ」


 そう声を上げて、亜樹子さんがポンと手を叩く。

 彼女は、チラリとルリちゃんの顔を見てから、再び俺に目を戻し、満面の笑みを浮かべた。

 ……イヤな予感しかしない。

 そんな俺の予感は、果たして的中した。


「……本郷くん、良かったら、背中を流してあげよっか?」

「ふぁ、ファファッ?」


 亜樹子さんのとんでもない提案に、俺は仰天する。

 それは、ルリちゃんも同じだった。


「ちょ、ちょっ! な、何バカな事を言ってんのッ? このヘンタイッ!」

「え? ヘンタイ? どこが?」


 飛び出さんばかりに目を剝くルリちゃんに、亜樹子さんはわざとらしく首を傾げてみせる。

 そんな母親のとぼけた態度にますます怒気を露わにしながら、ルリちゃんは更に声を荒げる。


「ヘンタイじゃんッ! む、娘の友だちと一緒にお風呂に入って、背中の流しっこをしようだなんて……!」

「あら? 私は『背中の流しっこ』をするなんて、一言も言ってないわよ?」

「……え?」

「もちろん、私は服を着たままに決まってるでしょ」


 クスクス笑いながら、亜樹子さんは言った。


「さすがに、初対面の男の子相手にそんな事はしないわよ。娘からそこまでデリカシーが無いと思われるのは心外だわぁ」

「う……」

「っていうか、あなたがしてあげれば? 本郷くんの背中を流してあげたり、流しっこしてあげたり」

「は、はああああっ?」


 亜樹子さんの言葉に素っ頓狂な叫びを上げたルリちゃんは、今にも顔面から火を噴きそうなほどに真っ赤になる。


「な、なななな何をバカなこ、こここ事言って……!」

「うふふ、冗談よ」


 まるで壊れたロボットのようにどもりながら、高速で首を左右に振るルリちゃんに、亜樹子さんはペロリと舌を出してみせた。


「ルリが照れてるのを見るのが面白くて、つい悪ノリしちゃったぁ」

「こ、こ……この大バカ親アアアアアアアっ!」


 悪びれた様子もない亜樹子さんに向けて放たれたルリちゃんの絶叫は、雷鳴もかくやという大音声で、リビングのガラス窓をビリビリと震わせるのだった……。

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