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第三百七訓 自分の価値を信じましょう

 「ルリちゃん自身も気付いてない気持ち……?」


 亜樹子さんの言葉を聞いた俺は、強く興味を惹かれて、思わず身を乗り出した。


「そ、それって、どういう気持ちなんですか……?」

「うーん、さすがにそれはちょっと言えないなぁ」


 俺が上ずった声で尋ねると、亜樹子さんは困った顔になって、首を横に振る。


「私の経験上、まず間違いないとは思うけど、かといって、現時点ではただの推測に過ぎないから、百パーセント確実と断言も出来ないしね。それに……あの子の気持ちを無断であなたに伝えちゃうのは、親としてというか、人としてちょっとね……」

「あ……確かに」


 亜樹子さんの答えに、俺はハッとした。

 確かに、ルリちゃんの知らないところで勝手に彼女の気持ちを第三者(亜樹子さん)の口から聞き出そうとするのはフェアじゃないし、何より彼女に失礼だ。

 そう考え直した俺は、亜樹子さんに向けて頭を下げる。


「亜樹子さんの言う通りです。すみません、今のは忘れて下さい」

「いえいえ、私の方こそごめんね。あなたに水を向けるような事を言っちゃって」


 と、申し訳なさそうに言った亜樹子さんは、フッと微笑んで、少し抑えた声で俺に言った。


「……でも、私は応援してるからね、本郷くんの事。まあ、ルリが相手じゃ色々と大変かもしれないけど、頑張ってね」

「は、はい……ありがとうございます」


 (『色々と大変』かぁ……)と、納得と困惑が入り混じった思いを抱きつつ、俺は亜樹子さんに会釈する。

 ……と、


「……ありがとうございますは、こっちの方もよ」

「え……?」


 亜樹子さんがぼそりと呟いた声が耳に入り、俺は首を傾げた。


「俺……何か、亜樹子さんから『ありがとう』って言われるような事しましたっけ?」

「しまくってるわよ」


 問いかけに即答した亜樹子さんは、キョトンとしている俺に苦笑いを向けながら、答えを補足する。


「直接的にっていうよりは間接的に、ね。“ルリの母親”として、本郷くんには本当に感謝しかないの」


 そう言った亜樹子さんは、ふと表情を曇らせた。


「君がいてくれたおかげで、ルリがホダカくんへの想いを諦めた後も、そこまで落ち込まずに済んだんだと思うのよ」

「え? そ、そうですか……?」


 俺は、亜樹子さんの言葉に思わず首を傾げる。


「この前……九月の上旬に通話した時は、かなり元気が無くて落ち込んでた感じでしたけど……」

「ああ、ひょっとしてあの時?」


 亜樹子さんは、俺の言葉にニンマリと笑った。


「私が出て、お風呂に入ってたルリに代わった時の――」

「ま、まあ……はい……」


 あの時のやり取りを思い出した俺は、恥ずかしさと気まずさがない交ぜになった感情を抱きつつ、ぎこちなく頷く。

 そんな俺の顔を見てクスクスと笑いながら、亜樹子さんは首を横に振った。


「確かに、ちょっとはガックリ来てたみたいだけど、あの程度じゃ全然落ち込んだうちには入らないわよ」

「え?」


 意外な答えに、俺はビックリして訊き返す。


「そ、そうなんですか?」

「そらそうよ」


 亜樹子さんは、どこかのプロ野球チームの監督みたいな口調で答えた。


「だって、あの子はホダカくんの事をずっと……十何年も慕ってたのよ。そんな想いを自分で断ち切ったんなら、もっとメンタルを病んでてもおかしくなかったわよ」

「……そう言われれば、そうかも」


 ――『何せ、ホダカとは、あたしが生まれた時からお隣さん同士だったからね! って事で、あたしとホダカの方の“幼馴染歴”は十七年だから、アンタたちよりも長い~!』


 ……初めてルリちゃんと会った日、彼女がそう誇らしげに言っていたのを思い出す。それからまだ三ヶ月半くらいしか経っていないが、彼女がどんなに藤岡さんの事を本気で好きだったのか、俺は事あるごとに見てきた。

 そんな彼女が


 ――『今の……幼馴染としての距離感のままで、これからもホダカと接していこうって…………()()()


 そう言って自分の恋を終わらせる事を選んだ、あの終わりかけた夏の日の昼下がりから、まだ一ヶ月も経っていない。

 ……普通なら、まだまだ失恋を引きずっていてもおかしくないだろう。


「でも、今のルリは元気でしょ? 確かに、まだまだ本調子とまでは言えないけど……それでも、こんなに早く、ああいう風に普通に笑ったり怒ったりできるようになったのは、間違いなく君という存在のおかげだと、私は思うわよ」

「お、俺の存在の……おかげ……」


 亜樹子さんの言葉に、俺は当惑の声を上げる。

 正直、俺がルリちゃんにそこまで大きな影響を与えられる存在なのかは半信半疑だったが……そうなのかもしれないと思うだけで、何だかとても嬉しかった。

 ……だけど、すぐに頭の上に大きな“?”(疑問符)が浮かんでしまう。


「い、いや……でも、俺なんかよりも、すぐ身近にいた友だちの方がずっと影響大きそうじゃないっすか? たとえば……あのアカネって人とか……」

「はあ……まったく、どこまで自分の事を過小評価すれば気が済むのやら……」


 俺の言葉を聞いた亜樹子さんは、呆れたような焦れたような表情を浮かべながら、大きなため息を吐いた。

 そして、俺を手招きをする。


「しょうがないなぁ。だったらこっそり教えてあげるわ。耳貸して」

「お、教えてあげるって……な、何を?」

「そんなの決まってるでしょ。いかに君がルリにとって大きな存在なのかを、よ」

「……!」


 亜樹子さんの言葉に、俺の胸は思わずときめいた。

 半分無意識に、亜樹子さんの手招きに応じた俺は、自分の耳を彼女の口元に寄せる。


「実はね……」


 亜樹子さんの潜めた声と息が、俺の耳をくすぐり――、


「……何やってんの、アンタたち?」


 不意に、氷よりも冷たい声がキッチンの方から上がった。


「……っ!」


 その瞬間、心臓が縮み上がるのを感じながら、俺は恐る恐る顔を上げる。

 そこには……知らない間にリビングに入ってきていたらしいルリちゃんが、黒ずんだ何かが盛りつけられた皿を手に持ったまま、ジト目をこちらに向けて立っていたのだった……。

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