第三百三訓 他人と接する時は距離感を考えましょう
「きゃああああ~っ!」
俺の答えを聞いたルリちゃんのお母さんは、頬に手を当てながら、いたく興奮した様子で黄色い歓声を上げた。
その途端、
『え? な、なに? どうしたの、ママっ?』
「……っ!」
キッチンの方から狼狽した様子のルリちゃんの声が上がって、俺の心臓は胸から飛び出しかける。このタイミングでルリちゃんにこっちへ来られたら、恥ずかしさとか照れくささとか気まずさとか何やらで、俺のメンタルが耐えられない……。
と、ひとり焦りまくる俺の横で、ルリちゃんのお母さんがニヤニヤしながらキッチンの方に向けて声をかけた。
「あ、ゴメンゴメ~ン。何でもないのよ。気にしないで料理に集中してて~」
『何でもないって……いや、確実に何かあったでしょ!』
お母さんの返事に返ってきたのは、確信に満ちたルリちゃんの声。さすが親子だ。小手先の嘘を吐いてもすぐに見破られ……いや、聴き破られるらしい。
ルリちゃんの声が、今度は俺に向かってかけられた。
『ねえ、ソータ! 何があったの?』
「え、あ、いや、そ、その……」
壁越しのルリちゃんの問いかけに対して、答えに窮した俺は、焦りまくって陰キャオタクのようにどもる。
すると、オロオロしているばかりの俺に代わって、ルリちゃんのお母さんが何故か弾んだ声で答えた。
「大した事じゃないのよ~。ただ……ちょっと大きめの雷の音が鳴ったような気がしてビックリしちゃっただけ~」
『え、えぇっ? 雷ッ?』
“雷”という単語を聞いた瞬間、ルリちゃんの声が更に上ずる。
そんな、狼狽を隠せない様子の彼女の声を耳にしたお母さんは、いたずらっぽく舌を出しながら言葉を続けた。
「そう、雷。だから、あなたはもうちょっとキッチンに居た方がいいわよ」
『う、うんっ、分かったッ!』
お母さんの声に、ルリちゃんは間髪を入れず即答する。
彼女の返事を聞いたお母さんは、某新世界の神のような“悪い笑み”を浮かべながら、小さく頷いた。
「……これで、ルリは当分こっちには来ないから、ゆっくりとさっきの続きが聞けるわね、うふふ」
「あっ……(察し)」
『計画通り』と言わんばかりのドヤ顔をするお母さんを前に、俺は「蛇に睨まれた蛙」という諺の意味を身に沁みて思い知らされながら、口の端を引きつらせる。
怯える俺の顔にニコリと微笑みかけた彼女は、更にこちらに向けて身を乗り出してきた。
「ねえねえ! 君はいつからルリの事が好きだったの? 教えて教えて~♪」
「ちょ! ち、近いですって!」
更に近付いたお母さんの吐く息に頬をくすぐられた俺は、慌ててソファの一番端っこに移動して距離を取り、めちゃくちゃドギマギしながら、必死で彼女を窘める。
「す、すみませんが、もうちょっと離れて下さい、お母さん!」
「あらぁ~! もう“お義母さん”って呼んでくれるの? 嬉しいけど、さすがに気が早くな~い?」
「そ、そっちじゃないっす! “義”が付かない方の“お母さん”ですっ!」
勝手にとんでもない早とちりをして嬉しがるお母さんに、俺は慌てて叫んだ。
それを聞いた彼女は、ぷうと頬を膨らませる。
「……なぁんだ、そうなんだ。まったく、紛らわしいわねぇ」
「い、いや、しょうがないじゃないっすか!」
なぜか恨めしげに睨まれた俺は、たまらず反論の声を上げた。
「だって、俺はあなたの名前を知らないんですから、“ルリちゃんのお母さん”って呼ぶしかないじゃないで――」
「“あきこ”よ」
「……え?」
唐突なお母さんの言葉に、俺は思わずあっけにとられる。
すると、ルリちゃんのお母さんは、自分の事を指さした。
「私の名前は、亜細亜の“亜”に樹木の“樹”に子供の“子”って書いて、“亜樹子”よ」
「あ……亜樹子……さん?」
「そっ」
俺の復唱に、ルリちゃんのお母さん……もとい、亜樹子さんはニッコリと微笑む。
「できれば、これからは“お母さん”じゃなくて“亜樹子さん”って呼んでくれると嬉しいな。“アキコちゃん”とか“アキちゃん”でもいいわよ」
「あ、いや……じゃ、亜樹子さんの方で……」
「あ、別に“義”が付いた方の“お義母さん”の方がいいっていうなら、そっちでもオッケーよ♪」
「それは遠慮します、亜樹子さん」
「……ちぇっ」
不満げに口を尖らせた亜樹子さんだったが、すぐに気を取り直した様子で俺の目をじっと見つめた。
「……で、さっきの続きなんだけどさ」
「う……」
「本郷くんは、いつからウチのルリの事が好きだったの?」
「そ……それは……」
少しでも亜樹子さんから距離を取ろうと、ソファの縁の肘掛けに身を預けながら、俺は言い淀み――それから首を左右に振る。
「正直……良く分かりません。――っていうか、彼女の事が好きだって気が付いた事自体がついさっきなんで……」
「え? 自分の気持ちに気付いてすぐルリを押し倒したの? うわぁ、顔に似合わずダイタンね~!」
「お、押し倒してなんかないっつーのっ!」
ニヤニヤしながら肘で脇腹を小突いてくる亜樹子さんに、俺は声を荒げる。
「あ、あれは、さっきも言ったように、あくまで偶然の事故で……」
「あーはいはい。分かりましたー。じゃあ、ひとまずはそういう事でいいわよ」
誤解を解こうとする俺に向けて、亜樹子さんはあしらうように手を振った。
いや……絶対に、まだ俺が押し倒したと思ってるよ、この人……。




