第三百一訓 鼻血が出たら安静にしていましょう
「鼻血は止まったかしら、本郷くん?」
「あ……はい」
ルリちゃん家のリビングのソファに横たわっていた俺は、鼻に詰めていたティッシュを外しながら答えた。
「そうですね……多分、もう止まったと思います」
「あ、無理して起きなくていいわよ」
先っぽが赤く染まったティッシュを丸めながら身体を起こそうとした俺の事を、向かいのソファに座ったパンツスーツ姿の女性が制止する。
「もう少し、そのまま横になってなさい」
「あ、いや……大丈夫っす」
女性の制止の声に首を横に振りながら、俺は上半身を起こした。……心なしか鼻の奥がムズムズするような気がするが、生温かい液体が鼻腔の奥から伝い落ちてくるような感覚は無い。
「……ほら、もう止まりました」
「それならいいけど……」
俺の言葉を聞いた女性――ルリちゃんのお母さんは、ホッとした表情を浮かべ、それから深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさいね、本郷くん。私たちのせいで……」
「あ、いや! そんな、謝らないで下さい!」
お母さんの謝罪に、俺は慌てて首を左右に振る。
と、彼女は自分の隣で憮然とした顔をしているルリちゃんを肘で小突いた。
「ほら、ルリ! アンタも本郷くんにちゃんと謝りなさい」
「……」
「い、いやいや! ルリちゃんは悪くないっすよ!」
不満げな顔で眉をしかめるルリちゃんの顔を見て、俺は慌ててフォローを入れる。
「そもそもあれは、あんな至近距離にいた俺が悪いんで……」
――あの時、お母さんがドアを開けようとするのを止めようとルリちゃんが体を起こした拍子に、彼女の頭が俺の鼻に結構な勢いでクリーンヒットしてしまった。
そのせいで鼻血を出してしまった俺は、鼻にティッシュをぎゅうぎゅうに詰め込まれて、今までリビングのソファに寝転がっていたという訳である……。
「……っと」
さっきの事を思い出したら、また鼻の奥がムズムズしてきたような気がしたので、慌てて鼻の穴を手の甲で押さえる。
そんな俺に、ルリちゃんのお母さんは意味深に微笑みかけてきた。
「ところで……さあ」
「な、何すか?」
お母さんのニヤニヤ笑いに何とも言えない嫌な予感を覚えながら、俺は訊き返す。
それに対して、お母さんは、横に座るルリちゃんの顔をチラリと見てから口を開いた。
「あなたとルリ……あの時、真っ暗な部屋のベッドの上でナニしてたの?」
「ふ、ファッ?」
……正直、その事は訊かれるだろうとは思ってて、あらかじめ覚悟して身構えてはいた。
だが、お母さんからのあまりにもド直球な問いかけに面食らって、俺は陸に上がったフナのように口をパクパクする事しか出来ない……。
「な、何もしてないってばっ!」
一方のルリちゃんは、怒りで顔を真っ赤にしながら、上ずった声で叫んだ。
「さ、さっきも言ったじゃん! アレは、たまたまソータが転んであたしの上に落ちてきただけで……」
「え~? たまたまであんな体勢になるものかしら? 本郷くんの頭にあなたの鼻がジャストミートするくらいに近付いちゃうなんてさ」
「な、なっちゃったんだから仕方ないじゃんッ! つ、つーか、いい年して、何変な事を想像してんのさ!」
「年は関係ないでしょ? 女は、いくつになっても色恋話が大好きな夢見る少女なのよ」
「い、色恋って……」
お母さんの言葉に、顔をますます紅くしたルリちゃんは、千切れんばかりの勢いで首を左右に振る。
「ば、バカじゃないのッ! あ、あたしとソータはと……友達だもんっ! い、色恋とか……そういうのはゼッタイに無いんだからっ!」
「……って言ってるけど」
ルリちゃんの言葉を聞いたお母さんが、おもむろに俺へ目を向けた。
「そこのところ、ホントはどうなの?」
「え? あ……は、はい……」
急に質問を振られた俺は、ぎこちなく頷く。
「る、ル……娘さんの言う通りです。俺がバランスを崩して、ルリちゃんの上に覆い被さる形で転んじゃって――」
「あ、そっちじゃなくって」
俺の言葉を途中で遮ったお母さんは、目を輝かせながら尋ねてきた。
「君とルリの間に、色恋的なものは本当に無いの?」
「そ、それは……」
お母さんの問いかけに、俺は一瞬言葉を詰まる。
……自分がルリちゃんの事を好きだと気付いてしまった以上、俺はもう「いいえ」とは答えられない。でも……当の本人が目の前に座っているのに、「はい」と答える訳にも……。
「っふふ……」
そんな俺の反応を見たお母さんは、目を細めながら、微かに笑みを漏らすと、唐突にお腹に手を当てた。
「あー、そういえば、まだ晩ご飯食べてなかったー。お腹すいちゃったな~」
そうわざとらしく言いながら、お母さんはルリちゃんに顔を向ける。
「って事で、ルリ、何か作ってー。カンタンな料理でいいよ~」
「は?」
お母さんの頼みに、ルリちゃんは怪訝な顔をした。
「なんであたしが作んなきゃいけないのさ? 自分で作んなよ」
「えー? ルリ、あなた日曜日に仕事をしてきてクタクタなお母さんに料理させるつもりなの~?」
娘の文句に、お母さんは大袈裟に肩を落とす。
「あー、女手ひとつで育てた娘が反抗期になっちゃったよ~! 自分は男の子といっしょにお祭りを楽しんできたクセに、生活費の為に身をすり減らして頑張ってるママの為にご飯も作ってくれないんだ~。ママ悲しいよ~」
「そ、そんな見え見えの泣き落としをしたって作らないよ!」
「野菜炒めがいい~。この前食べて、とっても美味しかったから~」
「お、美味しかった……?」
お母さんの『とっても美味しかった』という言葉に思わず頬が緩みかけたらしいルリちゃんだったが、すぐにハッとした顔になって、慌ててかぶりを振った。
「って! そ、そんなお世辞を言ったってムダなんだから! 作らないよ、絶対!」
「そうだ、本郷くんもいっしょに食べようよ。君も食べたいよね?」
「人の話を聞けええええっ!」
ルリちゃんは、勝手に話を進めるお母さんに怒声を上げる。
そんな彼女に、お母さんは「ははぁ」と呟きながら、わざとらしくうんうんと頷いた。
「そんな事言って、本当は自信が無いんでしょ、あなた」
「……はぁ?」
「この前はたまたまうまくいっただけで、今度も美味しく作れるかどうか分からないから、そうやってゴネてるんでしょ?」
「な、何言ってんのさ! そんな訳――」
「うんうん、分かる分かる。本郷くんがいるのに、料理を失敗したくないわよねぇ。――しょうがない。じゃあ、私が自分で作るしか無――」
「やってやろうじゃないのさっ!」
お母さんの言葉を絶叫で遮ったルリちゃんが、憤然と立ちあがる。
「ぐうの音も出ないくらいに美味しい野菜炒め作ってあげるから、そこで首を洗って待ってろ!」
「る、ルリちゃん……?」
「ソータも! そこでおとなしく待ってて!」
「アッハイ」
すっかり暴走モードのルリちゃんに恐る恐る声をかけようとした俺だったが、彼女の剣幕に気圧されてコクコクと首を縦に振った。
そんな俺を一瞥したルリちゃんは、「しゃーんなろ!」と気合の声を上げ、左掌に拳を打ちつけながらリビングの隣のキッチンへ向かう。
「……」
料理をしにと言うより、これから異種格闘技戦に挑む戦士のようなテンションの彼女を呆然と見送る俺。
――と、
「ほ・ん・ご・う・く~ん」
「ひゃ、ヒャイっ?」
俺は、いきなり真横から聞こえてきた甘い声にビックリして振り返った。
そして、いつの間に隣に座っていたルリちゃんのお母さんと目が合って、その距離の近さにビックリして思わず身を仰け反らせる。
「な、何すかっ? てか、ち、近過ぎ!」
「うふふ」
声を上ずらせる俺に、お母さんはニンマリと微笑みかけながら、片目を瞑ってみせた。
「本郷くん……ルリがご飯作ってる間にお話しましょ。……色々と、ね」




